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 埠頭の近くにある堤防の先端辺りで折り畳み椅子に座り海に釣り糸を垂らしていると、横で父親が立ったまま竿をせわしなく上下左右に振っているのが横目に入ってきた。父親は釣りの初心者だ。今朝父親が読んでいた雑誌は釣り雑誌だと優也は分かっていた。父親は形から入るタイプの人間だ。

 

 優也も釣りは初心者だが、ルアーを使う際はリールをゆっくりと巻いて仕掛けを少しずつ手前に動かす事がコツだと、以前誰かの釣りブログを読んで知っていた。こうする事で魚のいるポイントを探る事が出来るらしい。優也は釣り糸が張った状態から少し引き上げた。


 堤防は日曜だからか既に何人かの釣り人が居た。先端付近は釣りの人気スポットだ。港内は波が穏やかで釣りやすい反面、回遊魚などは少ない。それに比べ先端付近は潮通しが良い。


「もっとゆっくり動かした方が良いと思うよ。このミノーをまず安定して潜らせないと」優也は父親に助言をした。


「なぁ、考え直さないか?」父親がふと竿を動かすのを止めて折り畳み椅子に座ると、優也に話し掛けてきた。


「もう決めたから。それに約束したでしょ。父さんもその方が良いはずだよ」優也は父親から視線を外して、広がる海に視線を移し言った。


「俺だってな、情があるんだ。最初は気がおかしくなっていたといってもいい」父親は竿を持ったまま静かに言った。


 優也が父親を見ると、父親は無表情のまま海を見つめていた。優也も視線を海に移した。


 海底は濁っており、暗くて何も見えない。こんな汚い海を泳いでいる魚を普段食べているのかと優也は改めて思った。そして自分も今までこんな汚れた海のような世界を生きてきたのだという思考が脳裏に過り、脇が汗ばんだ。


「あんたなんて生まなきゃ良かった!」昔聞いた母親の罵声が脳裏にこだまし、右腕に負った古い火傷の痕が疼いた。


 優也は母親の声と、横からやってきた大柄な男に無理矢理片手で喉を押さえられ、床に倒された事を思い出した。突然のフラッシュバックに目の前の堤防の高さが揺らぎ、海の中へ無理矢理引きずり込まれる感覚がした。熱湯が自分の右腕に掛けられる。目の前の男は笑っていた。母親は新しい男との間に出来た赤子を抱え、泣く赤子をあやしている。


「お前が言う事を聞かねーからお仕置きだ」


「あんたなんて死んでしまえ」


 赤子の鳴き声と、男女の声が自分の心を抉る。


「大丈夫か?」父親の声がした。


 過呼吸になり自分の喉を片手で抑えながら優也が目の前に意識を集中させると、折り畳み椅子から落ちて堤防の上で四つん這いになり情緒不安定になっている優也を、父親が横から支えていた。


 優也は父親の顔を見たが、対人不安から急に視線を地面に移した。乱れた呼吸を必死に抑えようとした。


「大丈夫」優也は荒い呼吸をしながら何とか声を出した。


「悪かったよ。大丈夫か?」父親は心配そうに聞いてきた。とても優しい口調だ。先程の男とは全く違う。


「俺は約束通りにする」優也は荒い呼吸をしながら俯き、声を押し殺しながら言った。「母さんは約束を守る事を望んでいるはずだ」


「そんな事は話せばきっと理解してくれるはずだ。もう俺達は出会ったばかりの頃とは違う」父親は優也の肩を両手で支えながら言った。


「誰にも頼れなかったくせに」優也は咄嗟に口走っていた言葉に気付くと、片手で口を抑えてさらに俯いた。恐る恐る父親を見上げると、父親は悲しそうな表情をしていた。


「おい、あんたら大丈夫かい?」横から知らない男の声が聞こえ、優也は声の方を振り向いた。近くで釣りをしていたらしき男が心配そうにこちらを見ている。


「大丈夫です」父親が間髪入れずに笑顔を作り言った。優也は父親の今の笑顔を見て血の気が引いた。


「もう今日は帰ろうか。少しドライブでもしてから帰るか」父親が優也の肩から手を離し、優也から顔を背けて聞いてきた。


「うん」優也は過呼吸が収まったので、一瞬抱いた絶望感を払拭する為に頭を振るうと、立ち上がり言った。


「何処か行きたい所とかあるか?見たい物とか」父親が聞いてきた。


「何もない」優也は釣りの道具を片付けながら冷静に言った。


「何か、欲しい物とか」父親はさらに聞いてきた。


「もう欲しい物なら買って貰ったから。ありがとう」優也は茶太郎を思い出しながら言った。「茶太郎はよろしく頼むよ。我儘言ってごめんなさい」


「そんな事は良いんだ」父親は言った。しばらく沈黙が続き、二人共静かに釣りの道具を片付けていた。


「養育費の件も、よろしくお願いします」優也は念を押して伝えた。


「優也君、本当に娘さんに会わなくて良いのか」父親がそう言ったので、優也は一度も使用していないクーラーボックスを担いで車へ戻ろうとしたが、一度足を止めた。父親の顔を見ようとしたが顔を見る事が怖く、地面を見たまま考えた。


「会えたとしてもどうせ娘は俺の事を良く思ってないから。元嫁もきっと会わせてくれないだろうし。いつも通りだよ」優也は苦笑を浮かべてクーラーボックスを担ぎ直すと、車へ向かった。


「俺は息子の事を後悔しているよ」後ろから父親が静かに言った。


「どっちの息子の事?」優也は振り向かずに笑って聞いた。


「どっちもだよ」父親は言った。声は低いトーンで、顔を見ていないので表情は分からない。どんな気持ちで吐いた言葉か優也には父親の気持ちが分からなかった。

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