第9話 ハプニング2
「ごめん。部活あったはずなんだけど、急にかえってくるとは思わなくて」
「いいのいいの。可愛らしい妹さんね。日和って名前も可愛い」
俺の部屋に移動してすぐに謝罪をした。
彼女は狼狽えることもなく、平常運転だ。慌てふためいていたのは俺と日和だけだ。
「今、飲み物持ってくるから。適当に座ってて」
「分かった。ありがとう」
俺の部屋は殺風景で日和にもよく物がなさすぎることを指摘されるのだが、美月もそう思ったようで「すっきりした部屋なのね」といった。
勉強用の机に、本棚、それからローテーブルに座椅子がある。
彼女を残して、俺はリビングに戻る。
日和はガサゴソと冷蔵庫内を漁っていて、俺が背後から声を掛けると肩を大きく揺らして振り返る。
「お兄ちゃん!!!どういうことなの?あんな美女呼ぶなら事前に連絡してよ!もう~家に何も出すものないじゃない。言ってくれれば買って帰ってきたのに」
むうっと口を尖らせそう言った日和に俺は目を細め息を吐く。
「どういう事も何も、こういう事態に陥ったのは不可抗力なんだよ」
「言ってる意味がわかんない!でも事実なのは、お兄ちゃんにあんな美人で可愛いクラスメイトがいてしかも彼女候補ってことでしょ?!」
「だから!彼女じゃないって。美月は如月グループのご令嬢だぞ。俺みたいな一般人と付き合うわけないだろ」
「き、如月グループのご令嬢?!」
白目になって倒れかける日和に手を伸ばして何とか立たせる。
「…お、お兄ちゃん…凄いよ。如月グループのご令嬢と付き合うなんて…」
「だから…」
「女の子はね!気のない男の家になんかいかないんだから!よほど気を許しているか、好きか、のどっちかよ。気を許すほどお兄ちゃんと美月さんは付き合いが長いわけじゃないでしょ?つまりそういうことなの」
「……はいはい」
もう何を言っても無駄だと思い、俺は麦茶を新しいコップへ注いで自分の部屋に向かった。
日和に誤解されているようで、それが非常に面倒だ。
自分の部屋に戻ると、美月は正座をしていた。
座椅子が一つしかないからか、円形の濃紺のラグの上に直接座っていた。
「気をつかわせてしまってごめんなさい」
「いや、大丈夫。椅子に座っていいよ」
「ううん、大丈夫」
首をゆらゆらと横に振る美月。
俺は麦茶とせんべいののったお盆をローテーブルに置いてからリビングに戻り日和に話して日和の部屋の椅子を借りることにした。
「ごめんね、気を遣わせちゃって。私なら平気なのに」
「来客に地べたに座らせるほど俺は非常識じゃない」
「うふふ、そっか」
美月は朗らかに笑っていた。
「日和ちゃんは中学生?」
「うん、二年生。生意気で困る」
「そう?素直そうでいい子じゃない」
日和以上に美月は日和を気に入っているようだった。
「私、妹か弟が欲しかったの。羨ましい」
「兄弟いないんだっけ?」
そんな話を以前したような、していないような…記憶が曖昧だったのだが彼女は直ぐに首を横に振った。
「いるよ。兄が」
「そうなんだ。学生?」
「いいえ、もう社会人。如月グループの子会社で働いている。でも、兄さまとはほぼ会話したことがないから兄弟なんていないのと同じかな」
「……」
彼女は声色を変えることなくただ事実を述べるように、何の感情も乗せることなく続けた。
「私の母親は既に亡くなっているの。父は血が繋がっているけれどね。私は妾の子だったの」
「そうだったんだ」
何と返すのが正しいのか、俺は逡巡してから
「実績ってそのため?」
と、結局彼女を気遣う言葉ではなく、ストレートに聞きたいことを聞いていた。我ながら最低だなと思った。
美月は何度も実績、という言葉を使っていた。
そのワードに違和感があったから。
「うん、そうだね。私はとにかく実績が欲しい。そうでなければ…如月グループの長女として相応しくないの。お父様がいうように、このままじゃ私はいない方が良かった存在になるのだから」
微笑を浮かべる彼女に俺はことばを失った。
彼女という存在の輪郭を掴んだ気がした。
何故、こうも強いのか、何故こうも大人びているのか。何故、仮面をかぶっているのか…―。
「あ、本読むのね。見てもいい?」
空気が明らかに変わったこの状況を変えるように彼女は明瞭な声でそう言った。
俺は、いいよ、と頷いた。
美月が立ち上がり、本棚の前に立つ。
この部屋で一番存在感のあるものは本棚かもしれない。趣味といえるほどでもないが、昔から本は好きだった。洋書もあるし、小説、エッセイなどジャンル問わず読む。
美月は興味深そうに見ていた。
「あ、これ見てもいい?」
美月が一番上に並べられている本を指さしていった。
いいよ、といったが彼女の身長的に届かないだろうと思い俺も腰を上げた。
美月はつま先立ちをして手を伸ばしていた。背後から近づき、「これでいいの?」と声を掛けると同時に俺も手を伸ばす。
如月美月にもできないことがあるのだと、当たり前なのに不思議に思った。
だが、俺が背後から本を取ろうとしたことに美月が一瞬驚いて体勢を崩した。
俺もよろける彼女を支えるように肩を手で掴んだせいで、一緒に体勢を崩してしまった。
彼女を庇いたかったのだが、そうもいかず、俺は美月に覆いかぶさるような体勢になっていた。
それだけならばまだよかった。
…よかったのに。
「……えっと」
「…―あ、」
一瞬だ。そして事故だ。組み敷こうとしたわけではないし、押し倒そうとしたわけではない。
決してそんなことを考えてはいない。
むしろ俺は彼女とは距離を取りたかった。それなのに…―。
俺は何故か美月を押し倒すような体勢になっており、しかも一瞬、ほんの一瞬、頬に唇が触れた。
美月は固まっていた。
普段のように余裕そうに笑い、先ほど日和にしたように完璧に対応してくれるものだと思っていた。
だが、彼女は数秒固まった後、目をしばたたき、それから頬を上気させた。
目を白黒させ、完全に狼狽しているように見えた。
開口一番何を話せばいいのか、何と彼女へ声を掛ければいいのか、考えを巡らせる。
とにかく俺は彼女から体を離そうと上半身を起こした。
が、今日は本当にタイミングが悪い。
ノックする音と同時に「お兄ちゃん、近くの洋菓子屋さんでクッキー買ってきた…―え、」と、日和が俺の部屋に来た。
毎回、ノックして声が返ってきてからドアを開けるように言っていたのに日和はノック音と同時にドアを開ける。
日和がドアを半分開けたところで、俺が上半身を起こしているとはいえ、美月が仰向けになり頬を赤らめているこの状況は完全にまずい。
どう考えても、いや、考えなくともこの状況はまずいのだ。
「…あー、そっか。うん、ごめんなさい。クッキー後でリビングまで取りに来て…ね」
日和は俺と目を合わせないように早口で喋り終えるとドアを閉めた。
完全に誤解されていると悟り、盛大に溜息を吐いた。
美月から離れるようにして立ち上がると、彼女に手を伸ばした。
しかし、美月は首まで真っ赤にして俺の手を取らずに立ち上がるとそそくさと通学用鞄を手にして「お、お邪魔しました」と言って俺の部屋を出ていった。
常に堂々として、上品な振る舞いをし、まるで漫画や映画の中から出てきたような完璧な彼女が、あんなにも慌てふためいていたことに一番驚いていた。
「…何なんだよ、あいつ」
俺はしゃがみ込んでくしゃりと髪をかき上げた。
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