第17話 届かないパットは入らない

 ゴルフとは残酷な競技だ。

 三日から四日もかけて試合を行い、結局勝者は一人だけであるのだから。

 他にも数日をかけてトーナメントを行う競技はある。

 だが野球のような団体戦でも、テニスのような個人戦でも、試合ごとに一度は勝者になれるのだ。

 しかしゴルフは勝者が一人だけであり、他は全て敗者である。

 だからこそプロの中にも、一勝も出来ずに引退する選手が多いのだ。


 今一番その勝者に近いのは、もちろん小鳥である。

 だがその1打差に、玲奈がいるということは、さすがにプレッシャーになっている。

「いいかい小鳥、相手が女王だからって、変に気負う必要はないんだからね」

「いや、お母さんが落ち着いて」

「……落ち着いてない?」

「そう見えるよ?」

 夫の優勝争いのキャディはしていたので、平常心を保てるはずの澄花だった。

 だが傍から見れば、そのように見えてしまうらしい。

 夫と娘では違うのだろうか。


 18番ホールに入って、2位の玲奈と3位の綾乃の間には3打差。

 実質的にもう、小鳥と玲奈のマッチプレイになったと言ってもいい。

 既にラウンドを終えている中に、異常なスコアの伸びを見せた選手はいない。

 もっとも今日だけで既に、10アンダーの小鳥が異常なのだが。

 イーグルとアルバトロスを取ったホールがバーディどまりなら、順位も3位までであった。

 それだけ異常なゴルフを、フロントナイン(※1)でやっていたわけだ。


 プロでもイーグルなどはそうそう取れはしない。

 だが狙って取るために必要なのは飛距離である。

 パー5以外でのイーグルは、どれもがほぼ偶然である。

 パー5でのみある程度の計算が立つが、それでもパットは偶然性がものを言う。




 なんとか優勝したい。

 そう考える小鳥は、物欲で思考を満たす。

 副賞の車がもらえれば、今後の移動は楽になるだろう。

 優勝すればスポンサーのボーナスも大きい。

 ゴルフ場の宣伝にもなるし、レッスンを頼んでくる人間も増える。

 いいことばかりであるのだ。


 意外とこういう思考が、優勝するためには必要なのである。

 出来ないことを考えないという、ポジティブ思考。

 もちろん自分に対する期待度が、実力を上回ったものであれば、その過剰な期待に裏切られるだけだろう。

 しかし勝とうと思う人間でなければ、ゴルフは最後の最後で勝てない。

 その勝ちたい欲望は、卑俗なもので構わない。


 実は小鳥と競っている玲奈は、この試合は自分の負けかな、と思っている。

 最初に予定していた、自分のベストのスコアを、小鳥が上回っているのだ。

 もちろん最後まで、何が起こるのか分からないのがゴルフ。

 しかし相手の失敗を期待していては、自分の向上につながらない。

(私がするべきは、このホールをバーディで上がること)

 小鳥がどういう結果を残すかは、玲奈にはどうにも出来ないことなのだ。


 423ヤードのパー4である。

 特徴としては17番と同じく、フェアウェイ左の池が目に入る。

 これを嫌いすぎても、右に打てば木のスタイミーになる可能性が高い。

 距離より方向性を重視して、ティショットは打つしかない。

 ただし1打差なので、玲奈は最後まで勝利は諦めない。


「くっ」

 ティショットを左に曲げてしまって、思わず顔を歪める。

 自分の中の欲望を、いかにコントロールするか。

(まだあそこからならグリーンを狙える)

 池越しになってしまって、打ちにくくなったのは確かだが。


 無欲になりきれなかった。

 たとえ試合の結果は、相手のミスを期待するしかないとしても、自分の向上を考えなければいけない。

 それでもわずかな期待が、右腕に悪さをさせる。

(これで向こうは少し楽になってしまった)

 玲奈がパーフェクトなショットをしていれば、少しはプレッシャーになったのに。




 小鳥としてはここは、玲奈の位置ならば充分と考えている。

 池越しのショットは確かに、小鳥もあまり好きではない。

 距離感が少し狂っているので、それも問題にはなっている。

「右の木だけは避ける、でいいよね?」

「そうね。左にフックしても、さすがに池までは届かないし」

 池に入れようと思ったら、キャリーで350ヤードは飛ばす必要がある。


 風はほぼ無風になっていた。

 打ち下ろしでもないし、さすがに小鳥でも届かない。

 木に視線を邪魔されるよりは、まだしも池の方がいい。

(2打目が飛びすぎても、ラフからは戻せる)

 そう考えた小鳥は、素直にドローを打っていった。

 玲奈のボールよりもずっと、真っ直ぐに飛んでいく球だ。

 もちろん池には届くことはなく、おそらく池越しにもならない。

「なんだか普通にアプローチ出来そう?」

「そうね。たぶん120ヤードちょっと残ってるぐらいかしら」

 120ならば小鳥のAW(※2)の52度で何も問題はない。


 ジャストの距離が残った、とは言える。

 しかしそれは普段のジャストで、飛びすぎることはないのだろうか。

 移動しながらも2打目のことを考えていく。

(玲奈さんが2打目でグリーン外してくれたら、楽になるんだけどなあ)

 小鳥は正々堂々と、人任せなことを考えていた。


 玲奈がここから2打目で、完全に運任せのイーグルでも打たない限り、小鳥はバーディで勝利出来る。

 もっともついこの間、バンカーからのアプローチでチップインした、最強アマの姿は記憶に新しいが。

「玲奈さんって外さないよね」

「外すわけないでしょ」

 予想通りに玲奈は、第二打をグリーンに乗せてきた。

 しかもピンに近い、1mほどの距離である。


 やはり小鳥もバーディが必要になる。

 ただAWでフルに打っていくと、距離感を間違えることはあるだろう。

 アドレナリンで体の方が、飛ばしすぎる状態。

「う~ん」

「またランニングアプローチでもする? 120ヤードを打つのはさすがに無理よ?」

「無理とは思わないけど……」

 自分の今の飛距離を、どう考えればいいのか。

 300ヤードを飛ばすつもりが、10ヤードほども遠くに飛んだ。

 ピンはグリーン奥に切られていて、手前と奥の間にわずかな谷のような傾斜がある。


 あの谷に短めに打って、まっすぐの上りのラインがほしい。

 ただそれだと距離は5mほどもあろうか。

 先に綾乃が打って、これまたグリーンには乗せてきた。

 しかし優勝戦線から完全に脱落した彼女は、相当にノンプレッシャーで打っていた。

 そのため玲奈よりもさらに近い、50cmほどの距離である。

 両者共にバーディはほぼ確実であろう。




 考える時間が長い。

 クラブが選べないというのは、かなりの問題である。

 最終日の最終組だけに、競技委員(※3)も付いている。

(グリーンも手前に止めたら、たぶん2パットになるしなあ)

 悩んでいるところだが、さすがに時間をかけすぎている。

「小鳥遊プロ、時間がかかりすぎです。一度目の警告になります」

 がーん。


 優勝争いをしていて、しかも最終ホールであるので、これでもかなり時間は待ったのだ。

 しかし既に打った玲奈も綾乃も、少し前進して小鳥の2打目を待っている。

 二回目からの警告は、打数のペナルティ(※4)がつく。

「ええい、女は度胸!」

「って、サンドはいくらなんでも短いでしょ!」

「やや転がしてグリーンの低いところについたら、最後には上りのパットが残る!」

 それは道理である。


 アドレスに入った小鳥は、もう集中している。

 ほんの少しフェース(※5)はかぶせるが、あくまでもほんの少し。

 振りぬいたボールはSWのショットにしては高さは出ず、その代わりに距離は出て行く。

「今さらだけど、52でグリップを短く持った方が良かったんじゃない!?」

「本当に今さらだよ!」

 だがボールはちゃんと、ピンへのラインをたどっていた。

 グリーンにオンして、わずかに転がる。

 止まった位置は上り3mほどが残ったところであった。


 ストレートのパットである。

 それも上りのパットである。

 プロであるならば外したら、恥ずかしいパットではある。

 だがそれでも決まらないことがあるのが、初優勝のパットなのである。


「先に打つわ」

 綾乃がそう言ってパターを持ったのは、別に嫌がらせではない。

 彼女はもう優勝の可能性がないのだから、何も影響がないように、先にボールをグリーンからなくすための配慮である。

 そしてあっさりと、微妙なスライスラインを決めてしまった。

「ラインを見るのに時間をかけるなら、私も先に打つけど?」

 玲奈がそう言ったのも、プレッシャーをかけるつもりではない。 

 小鳥のバーディパットが入れば、それはウイニングパット(※6)になる。

 ウイニングパットを譲る意味があるが、ルールでは遠い者から打っていく。

 だが綾乃が打ったように、ペナルティはないのだ。


 綾乃はこれを見て、甘いことだと内心で思っていた。

(私なら先に入れて、プレッシャーを与えるけどね)

 今の状況なら小鳥は、外しても玲奈も外すかもしれない、という精神状態で打つことが出来る。

 だが玲奈が先に決めてしまえば、自分も決めないといけない、という状況になってしまうのだ。

 すると外す可能性がかなり高くなる。


 先日の試合、百合花がチップインイーグルを決めた時、玲奈は動揺して3パットしてしまった。

 1mならお先に、と言ってそのまま打ってしまってもいいのだ。

 だが女王はとにかく、フェアでいたい。

 この矜持があってこそ、自分は強くいられると思っている。

(こんな甘い女がトップなんて)

 綾乃はそう思うが玲奈としては、揺るがないためにその甘さも必要なのだ。

(フェアにやってこそ、勝つ価値が生まれる)

 そう思えている間は、本当に価値があるのだ。


 小鳥はその提案に、少し考えて頷いた。

「お願いします」

 玲奈はそれから軽くラインを読み、簡単に決める。

 1mのパットはボールが歪んでもいない限り、おおよそは入るのだ。

 自分が入れても相手が入れれば、それで負けると考えていれば、プレッシャーも軽めに打つことが出来る。

 そして小鳥の球のみが、グリーンに残った。




 これを決めれば優勝である。

 さすがにここでは時間を使っても、問題はないと判断される。

 そのあたりゴルフは、微妙にルールの適用がふわふわしたスポーツでもあるのだ。

 だがそのプレイに、納得させるものがないといけない。

 もしここで小鳥のプレイ時間を警告したら、逆に空気を読めと言われるだろう。

 それに競技委員としても警告まではともかく、ペナルティを課すのは難しいと思っている。


 もう誰も待っている人間などいないのだ。

 強いて言えば同伴競技者が、待っているとは言えるのだろう。

 他にはテレビ中継の時間が、限られているとも言える。

 もっともそこまで長く、待たせるわけではない。


「ストレートだよね」

「上りだから、ラインはほぼ消えるわね」

 ラインは上りを残すのが基本である。

 タイガーが勝つための秘訣を聞いて、そう言っていた。

 ニクラスあたりはジャストタッチ派であるのだが。


 強く打つかジャストで打つか、それは状況による。

 カップをオーバーしたら池などという場合は、ショートしてもOKと考える。

 だが上りのパットは、少しぐらいオーバーしてもいいのだ。

 届かないパットは入らないのだから。


 微妙なラインは見ない。

「7時(※7)狙いかな?」

「まっすぐ」

「まっすぐか……」

 完全にストレートなラインではなく、真っ直ぐ打ってラインを消してしまう。

 そんな強いパットが打てなければ、勝負どころでは勝てない。


 こんなパットを決めるのに、必要なのは技術ではない。

 最後の最後には、入れてやるという強い気持ちで勝つ。

(行け!)

 斜面を上がっていくパットは、やや強いのではないか。

 だがゆっくりと速度は落ちていって、そのまま正面から入った。

 最終ホールバーディで、小鳥は19アンダーでホールアウト。

 ガッツポーズをしながら、グリーン上で飛び跳ねる小鳥であった。

「グリーンが痛む!」

 またウェッジでこつんとやられる、調子に乗りやすい小鳥であった。




×××



解説


1 フロントナイン

前半9ホールのこと。後半はバックナイン。

小鳥は最終日フロントナインで7打、バックナインで4打潜っている

11アンダーは化け物であるが、アルバトロスとイーグルは運の要素が強い。


2 AW

アプローチウェッジ。

ウェッジの中でもおおよそ、バンカーから出すためにロフトの大きなサンドウェッジ、アプローチの微妙な距離をコントロールするアプローチウェッジ、それなりに距離も飛ばすピッチングウェッジの三つがある。

ただPWはアイアン的に考えて、ウェッジを他に三本持っていたりする選手もいる。


3 競技委員

ゴルフは基本的に自己申告制のスポーツで、審判は存在しない。しかし競技大会であれば話は別である。

コース事情などの確認をするため、競技委員がいる。今回の場合は最終組に普通に競技委員がついていたわけだが、最終日の最終ホールで警告が出ることはもっと時間がかかった場合のみであろう。


4 ペナルティ

二度目の警告では2打のペナルティがついてしまう。

それでも時間をかけて自分のゴルフを貫く精神力があった方が、普通は強い。

他人に急かされるとミスが出ることが多い。


5 フェース

クラブの当たる部分である。

なお同じフェースでも、どの部分に当たるかで方向が変わっていく。

ドライバーなどかなりピンポイントで打つと、20ヤードぐらい飛距離が伸びたりする時もある。


6 ウイニングパット

優勝を決めるパットである。

今回の場合は小鳥がパットを決めると、玲奈が何をしても逆転はないので、プレッシャーがかからないように小鳥が先に打ってもよかった。

ただウイニングパットの後は観衆の騒ぎもすごいので、先に玲奈に譲るのもまちがいではない。

綾乃の考えていることが心理戦では正しい。


7 7時

カップを外さない程度に打つとき、ジャストタッチに近いと、カップのどのあたりを狙うかが問題となってくる。

時計をカップの上に置いた場合、どこから曲がるかが重要である。

またストレートに打つのがどうしても苦手な選手もいて、最初からわずかにずらして打つこともある。

3時から9時までの間を狙って打つのが常道。

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