第16話 上がりの3ホール
プロゴルファーはホール間の移動や同伴競技者のプレイの間に、補給食を食べていることがある。
女子の場合はハーフを回ったあたりで、前が詰まっていてそこで簡単に食事をすることが多い。
最終日は予選の足切りで人数が減り、その分スムーズに回るようにも思えるが、同時にピンポジの変化で考える時間が多くなったりする。
「バナナもう一本ちょうだい」
「一房全部食べるってあんた……」
するとやはり前が詰まって、その間にどう集中力を切らさないか、それもポイントとなってくる。
15番ホールまでが終わっていた。
11番で最終組は全員がバーディを取って、小鳥はいったん玲奈が当初想定していた、優勝スコアの17アンダーに到達した。
その時点で残りの7ホールを、安全にパーキープすればほぼ勝てるだろう、と考えたのは玲奈である。
だがそれもまた難しいのだ。
実力の中でも、メンタルの技術の問題だ。
「少し風が吹いてきてない?」
綾乃は仕掛けている。
「そうですね」
応じたのは彼女のキャディであるので、これは別にマナーにさえ抵触しない。
ただ風が吹いているのか、と同伴競技者は気にしてしまうことがある。
「風……」
小鳥と澄花は空を見上げて、雲の動きを確認した。
「ないね」
「ないない」
さすがにこれぐらいでは引っかからない。
ゴルフにおいて風というのは、本当に気まぐれなものである。
どれだけ完璧なショットを打っても、突風でそれが池ポチャになることは普通にあるのだ。
だが小鳥はコースを回ることで、ゴルフを知った人間だ。
地形と雲の動きで、それぐらいは分かるのである。
しかしどれだけ神経が太いといっても、完全に無神経ではいられない。
この15番終了までに小鳥は、さらに一つバーディを取ったが、ボギーを二つ叩いている。
つまり現在16アンダーであり、玲奈は15アンダーまで伸ばしていた。
綾乃もバーディを一つ奪ったが、ボギーも一つ叩いて14アンダー。
小鳥を筆頭に三人が、1打差ずつ並んでいるという状況だ。
残り3ホールであるが、全く油断出来る状態ではない。
特に17番と18番は、小鳥の苦手な要素を持つホールなのだ。
それは池である。
ここまでにも池のあるホールはあったが、特に最後の二つについては、グリーンからこぼれたら池、というレイアウトになっている。
ラフやバンカーからならば、いくらでも練習は出来る。
しかしさすがに池からは、練習などはしない小鳥だ。
17番は最も長いパー3で、バーディを取っている者は少ない。
三日間でダボを叩いている選手が10人もいるのは、このホールだけである。
「その前のこの、16番が勝負どころだね」
小鳥はこれまで、逃げ切って勝つという経験が足りていない。
もちろん小さなコンペであれば、そういうこともあったが。
難しいホールというか、ティショットをミスすればそれで、終わってしまうのが17番と18番だ。
そこは確実にパーを取りたいが、2位との差がないためバーディを狙ってくるだろう。
前の組で追いつきそうな選手はいないので、おおよそ優勝はこの三人に絞られた。
16番は385ヤードのパー4で、ここも左手に池がある。
だが小鳥の飛距離なら、何も問題にはならない。
重要なのは1打目のあたりのフェアウェイバンカーであるが、これも小鳥の飛距離なら入らないだろう。
問題はラフにならば入る可能性がある。
ラフに入れてしまえば、たとえウェッジが使える距離でも、グリーンに乗せるのも難しい。
ショート(※1)してしまうとバンカーに捕まるからだ。
「いくらあんたでも、あのバンカーに入れたらパーは難しいわ」
「つまりフェアウェイキープで、2打目をクリーンに打つんだね」
当たり前のことを、当たり前のようにすればいい。
それが難しくなるのが、優勝争いなのだ。
初めての優勝というのは、2位に圧倒的な差をつけて、というものがそれなりに多かったりする。
そして一度でも勝ってしまえば、そこからとんとんと勝っていく選手がいる。
一度だけしか勝てないプロもいれば、一度も勝てないプロもいる。
小鳥の場合はアマで一度勝っているのだから、それで充分にすごい。
(この子は相手がプロでも、あまり関係がなかった)
そのあたりネジが飛んでるな、とわが子ながら澄花は思う。
優勝に一番近いところにいるが、それだからこそ難しい。
亡き夫はツアーで3勝していたが、優勝するのに時間がかかった人間こそ、なかなか優勝出来なくなる、と言っていた。
実際にキャディとして共に回っていて、最終ホールで自滅して、夫が2位まで上がっていく様子を見たこともある。
小鳥は残り3ホール、果たしてプレッシャーに負けずにいられるか。
1打差で追われている展開など、苦しいに決まっているはずだが。
他の二人のうち、玲奈はまだ余裕を見せている。
三人のティショットが終わって、フェアウェイを歩く間も笑みを見せる。
ただ満面の笑みという点では、小鳥にはかなわない。
天真爛漫と言うべきか、プレッシャーを感じないようになっているのか。
本気のゴルフというのはもっと、緊張感にあふれたもののはずだ。
しかしゴルフ場で育った小鳥は、コースを歩けば落ち着くのだ。
このホール、初球は三人ともフェアウェイをキープした。
2打目でグリーンを狙える距離を残し、残る懸念はグリーン前のガードバンカーだけ。
花道がほぼ塞がれているため、グリーンに落とす必要がある。
そのグリーンもある程度の傾斜はあるが、そこまで難しいというものではない。
一番距離が出ていない綾乃から、2打目を打っていく。
グリーンの上、ピンまで3mといったあったりで止まった。
玲奈のショットもピンまで1mほどといったところ。
追いかけてくる二人が、バーディチャンスである。
特に玲奈はほぼバーディなので、ここで小鳥がバーディを取れないと、追いつかれてしまうことになる。
「風もないし、58度で打っていく?」
「奥にはバンカーないよね?」
「距離が出すぎてる?」
「まだコントロール出来るぐらいだけど」
これが怖いのだ。
優勝争いを演じていると、最終ホールに近づくに従って、飛距離が増してしまうことがある。
アドレナリンが分泌されて、興奮状態から火事場の馬鹿力が出るのだ。
この飛距離の上昇分を、どう計算に入れていくのか。
「奥のラフはOBじゃないし、もしラフに入れてもたぶん大丈夫」
「そう?」
「レイアウト的にそのあたりは、観客がずっと見ていたはずだから、ラフも踏み固められてるはずね」
そういう計算もする澄花である。
天候によっては色々と考える必要もあるが、この試合は二日目がやや風が強くなっただけ。
練習ラウンドと最終日では、コースの状態も変わっている。
むしろ同じ最終日でも、どの順番で打つのかは重要だ。
後から打てば打つほど、コースにディボット跡が増えるように。
小鳥のウェッジショットも、しっかりと止まった。
しかもバンカーとピンの間の、短く狭い上りのラインである。
これは一番パットがしやすい。
他の二人も本当なら、そこをピンポイントに狙いたかった。
下手にピンデッドに攻めると、ピンに弾かれてバンカーに落ちたりもする。
だから短いアプローチはともかく、ウェッジでも長めの距離ならば、寄せるだけでいいのだ。
一番短い小鳥はボールをマークする。
先に入れてしまった方が、良かったであろうが。
50cmの距離ならば、まず外すことはない。
ここでお先にと打って、バーディを確定させるべきであった。
だがそのあたりの試合の機微を、まだ小鳥は理解していない。
(まだ勝てる)
3mの下りのパットを、綾乃がまず入れた。
そして玲奈も問題なく入れて、小鳥の番が回ってくる。
(う……)
外したら玲奈に並ばれるパット。
「ちょっと緊張するかも」
「グローブ代える?」
「うん」
グリーンでのパットの時はグローブを外すプロも多いが、小鳥はそのままで打つタイプである。
一呼吸入れて打ったのが、結果としては良かったのだろう。
バーディを取ってまたも17アンダー。
しかし1打差と2打差の追跡は、さすがに鈍感な小鳥でもプレッシャーとなる。
(あと二つ)
そこでパーを取ることが、小鳥の勝利のための最低条件である。
3mや1mのパットを外してくれれば、小鳥も楽になる。
特に玲奈と2打差になれば、精神的な重圧は軽くなるのだ。
(上がり3ホールが中間地点)
ゴルフは18ホールでラウンドするが、残り3ホールになったところからが、その選手の資質を露わにするという。
とりあえず16番は、全員がバーディであった。
17番は一番長いパー3。
ダブルボギーが一番多いホールである。
距離は225ヤードと、確かにパー3としては長い。
だがスコアを悪くする理由は、やはり池があることなのだ。
この17番に入った時、オナーであったのは玲奈。
残り2ホールで特にこの17番のオナーであるのは、相手にプレッシャーを与えやすい。
難しいパー3を、確実にバーディの取れるところに球を置く。
グリーンは左に池があるが、右にはバンカーがある。
どちらかに捕まれば、ボギーを叩くのはまず間違いない。
とりあえずグリーンにだけは止める、というのが最低限の1打目になる。
200ヤードオーバーのパー3というのは女子プロならばドライバーが必要な選手もいないではない。
だがドライバーではグリーンに止まる、高い球が打ちにくい。
そういった選手はランで距離と方向が合わないのなら、刻んでいくしかないのだ。
無理に1オンを狙えば、ダボが待っている。
「トリ叩いてる選手もいるみたいだしね」
「う~ん、このヤーデージブックだけど、フェアウェイは傾斜どうなってたっけ?」
「カート道から先はフラットだけど、幅があまりないわね。わずかにバンカー側に傾いてるけど」
小鳥はちゃんと、そこでも考えるのだ。
小鳥は距離を出すために、ランで転がるドローボールを基本的に打つ。
フェードのボールは高くなって、止まりやすいボールとなるのだ。
飛ばすことを重要視する小鳥は、ドローボールを使うことが多い。
「バンカーはまだしも、池ポチャは優勝戦線離脱だよね?」
「まあ、現実的に見れば」
玲奈のボールはピンまで少し距離があるが、2パットで入れることは確実だ。
出来れば小鳥もバーディがほしいし、実際に距離的には問題がない。
ただ池を意識してしまう。
「5Wで止まるとは思うんだけど……」
そう呟きながらも小鳥が取り出すのはドライバーである。
「いや飛びすぎるでしょ。奥はOBじゃないけど、カート道もあるしラフにもなってるわよ」
そう言いながらも、当然澄花は小鳥の考えを察している。
どんなゴルファーであろうと、得意なクラブとそうでないクラブがある。
そのクラブならば上手く力加減も出来て、アプローチしやすいというものだ。
小鳥の場合はそれが、ドライバーなだけである。
直ドラも含めてドライバーで、距離を合わせることが出来るのだ。
まっすぐに打つことが出来て、フックをかけたドローでランを出したり、スライスをかけたフェードで転がさずに止める。
飛距離が重要な時代に、ドライバーでそれが出来るのは、大きな武器になっているのだ。
ティを深く刺した小鳥の姿に、観客がざわめく。
ここでドライバーを持つ選手は、飛距離の出ない選手でも一人もいなかった。
それだけグリーンの左右に、ハザードが存在しているからだ。
だが小鳥としてみれば、今の自分の飛距離が信じられない。
しかしイメージが浮かんだのは、このドライバーである。
アドレスに入って、静寂の中でクラブを上げる。
大きく振りかぶるのではなく、まるでアプローチをするようなバックスウィング。
そしてインパクトからフォローにかけても、ぴたりと止めるようなアプローチめいたショット。
もちろんドライバーなので、それでもボールは飛んでいく。
高さの出ないスティンガーショット(※2)である。
風のないこんな日には、微妙な凹凸のある地面を転がすより、素直に空中に飛ばした方がいい。
それは当たり前なのだが、小鳥は普段からこういったボールの練習をしている。
出来ると思うならばやる。
200ヤード近くも飛んだところで、花道に着地してから跳ねる。
グリーンではさほど転がらず、見事にピンまでバーディが狙える距離で止めた。
大歓声である。
そもそも距離感の問題、バウンドの問題、スピンの問題とこれは、明らかに難易度が高いショットだ。
お客さんは喜ぶし、同伴競技者はメンタルを乱されるが、もっとリスクの少ないショットはあったはずだ。
ただティーイングエリアでも大きな拍手が湧いて、小鳥はそれに手を振って応える。
しかしすぐに、人差し指を唇に当てた。
ここでは綾乃が三番手のティショットを打つ。
そのための静寂であるが、逆にこの静寂がプレッシャーとなる。
(いったいどうしてあんなショットを)
リスクが高すぎるし、リターンが少なすぎる。
普通に距離にあったクラブで打って、グリーンを捉えればいいではないか。
ただ玲奈は呼吸を整えている。
(今のショット、先にやられていたら、私がミスしていた)
小鳥の意図はともかく、玲奈でさえもそう思うショットだった。
(氷室さんはメンタルも比較的強いけど)
今日はここまで小鳥相手に、無駄にメンタルのスタミナを使っている。
左にだけは打ってはいけない。
だが本来の綾乃なら、普通にグリーンセンターをキープ出来たはずだ。
しかしユーティリティで打っていった球は、右にスライスしていく。
観客からの嘆声と共に、それはグリーンサイドのバンカーへと落下した。
(これで絞られた)
玲奈の目は明確に、小鳥一人を相手と見定める。
1打を追った18番ホールの戦いが始まる。
×××
解説
1 ショート
文字通り打球が短くて、目的地に届かないこと。ショットのショートもあれば、パットのショートもある。プロでパットがショートばかりするのは、あまり活躍出来ない。
ただジャストタッチ派とオーバー派でプロの意見も分かれていて、ニクラスは前者、タイガーは後者である。
2 スティンガーショット
低弾道でありながら途中でお辞儀もせず、地を這うように飛んでいくショットのこと。
スティンガーミサイルから名前はつけられたらしい。
風の影響をあまり受けずに飛距離が出るというメリットがある。
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