第29話 別れ

 春休みになって、三月下旬、ドイツへ行く日がやってきた。

 卒業式が終わった後、引っ越しの準備をして必要最低限のものを旅行鞄に詰め込んだ。

 家財は売り払った。ここへ帰って来れるかどうか、わからないからだ。

 もし帰ってきたら、一人暮らし用の新しい部屋を探そうと思う。

 マンションの玄関に鍵をかける前に、最終チェック。


「ヒロ、忘れ物はない?」

「うん、大丈夫」


 るきあに言われて、ショルダーバッグに入れた貴重品を確認する。

 

「倫太郎、大丈夫かな?」

「あーっ、知り合いに頼んだから、大丈夫だよ!」


 さすがに倫太郎は連れていけないということで、るきあに相談したら、どうやら知り合いが預かってくれたようだ。引き受けてくれる人がいて良かった。

 

「じゃあ、行こうか」

「……うん!」


 玄関に鍵をかけて、不動産屋さんに鍵を返してから、空港へ向かった。


 

「おーい、ヒロー! るきあちゃん!」

「晶! 愛ちゃん!」


 空港へ行くと、晶と愛ちゃんが見送りに来てくれていた。

 搭乗手続きを済ませ、時間まで話していると、

 

「おーい!」


 向こうから、聞き覚えのある低い声が聞こえた。

 振り返ると、ひときわ背の高い男の人……迫河だった。

 たしかに出立日は教えていたけど、まさか見送りに来るなんて。

 

「はぁ……間に合った……!」


 迫河は、息を切らせながら淡いピンクの封筒を差し出してきた。

 

「見送りと……これ……」

「手紙?」

「篠さんからだ」

「えっ」

「飛行機の中で読んでくれと」

「えぇと……」


 篠さんからだから、大丈夫だとは思うけど、やはり手紙は警戒してしまう。

 

「ああ、中身は一応おれ……」

「あーっ! 中身は、あたしが確認してる! だから大丈夫!」


 迫河の言葉を遮るように、るきあが言った。

 なんだったんだろう……?


「そっか……ありがとう、迫河」


 るきあが確認しているなら安心だと、手紙を受け取った。


「ヒロ。これ、飛行機の中で食べて」


 るきあが差し出してきたのは、あのラッピングのものだった。


「あっ、これは……」

「ふふっ、カワイイ後輩さん・・・・・・・・から、だよ」

「ということは、もちろん中身は……」

「「バナナミルクプリン!」」


 と、声を揃えて言った。

 日本を発つ日にまで用意してくれるなんて、どんな子なんだろうな。

 帰ってきたら、絶対にお礼を言おう。

 

 その内に、搭乗のアナウンスが聞こえてきた。

 

「じゃあ、みんな……行ってくる!」

「行ってらっしゃい!」



 飛行機の座席に着いて、早速後輩さんからのラッピングを解く。

 しかし、中身はバナナミルクプリンではなく、個包装されたクッキーだった。

 少し残念な気はしたが、手紙が添えられていた。


『国際線では、プリンが持ち込めないようなので、バナナクッキーにしました』


 な、なるほどー! そこまで調べてくれたんだ、と嬉しくなった。

 最初の一つを味わって食べて、後はしまっておいた。


 やがて飛行機が動き出して離陸し、どんどん日本が離れていく。

 あっという間に、雲の上に来てしまった。

 ここからドイツまでは、十四時間以上もかかる。

 ようやく落ち着いたので、篠さんの手紙を読むことにした。


  ヒロくんへ

 

  私がヒロくんのお見舞いに行って倒れたあの日から、

  私は、余命三ヶ月を宣告されました。

  でも、ヒロくんがこれを読んでる時点で、

  三ヶ月は超えてやったぞ。やったー!


 篠さんらしいな、と笑みがこぼれる。

 

  ヒロ君は、病気を治したら戻ってくるんでしょう?

  その時は──

  ぜひ、本来の姿のヒロくんで会いにきてね。

  私は、それまで待っています。

  それまで、生き抜いてみせます。

  ヒロくんも頑張ってね。

                 篠より

 

 『本来の姿』……。

 もしかして、篠さんにはバレてた!?

 ……いつから知っていたんだろう?


 しかし、オレがドイツへ行って二ヶ月ほど経った頃──

 篠さんは、帰らぬ人となったと、るきあからの手紙で知った。


 

 あれから二年が経った。

 わたし・・・は、ドイツで治験を繰り返し、そのうちに女性として男性と接することができるようになってきた。

 兄貴は相変わらず忙しく、一緒に暮らしてはいるもののほとんど顔を合わせることがなく、義姉あねであり、わたしの担当医でもあるサリィさんと一緒にいることが多かった。

 

「……うん、経過も良好ね!」

「ありがとう、サリィさん」


 月に一度、診察や検査をして、体調の変化を調べる。

 これも、二年繰り返してきた。

 

「この二年で、ずいぶんと変わったんじゃない?」


 サリィさんの言うとおり、以前より体つきが変わってきた気もするし、言葉遣いもかなり努力した。


「こっちに来たその日に、邦久にストレートパンチした子が……」

 

 二年前、ドイツの空港へ到着すると兄貴とサリィさんが迎えに来ていた。

 わたしは約束どおり、兄貴の左頬を一発殴ったのだ。

 あの時の兄貴は顔色ひとつ変えず、甘んじてわたしの拳を受けた。

 それがまた、腹が立ってならない。


「とても、アグレシィブな義妹いもうとだと思ったわ!」

 

 サリィさんもその場面を思い出したのか、苦笑して言ったので、


「そうじゃなければ、サリィさんのスパルタ教養にも耐えられなかったです」


 と、笑って返した。

 

「あら、言うじゃない!」


 そんな感じで、義姉との関係は良好だった。

 

「あとは、ヒロに好きな人ができれば、最終確認できるんだけどな……」


『好きな人』と言われて、彼の顔を思い浮かべてしまう。

 わたしはもう、大丈夫だ。

 安心して人を好きになれる。

 

「──え? ま、まさか……好きな人がいるの!? 日本に!?」


 顔に出てしまっていたのか、サリィさんに肩を掴まれる。

 

「これは一大事よ、ヒロ! あなた、今すぐ日本へ行って、その子に告白されてきなさい!」

「え……えええええええぇぇぇぇっっ!?」


 *


 まさか、二年で帰れるなんて。

 もっと長期間を覚悟していただけに、喜びもひとしおだった。


 るきあには、事前に連絡しておいた。

 多分、晶と愛ちゃんもいるだろう。

 あと、神楽さんを呼んでおくよう、るきあに頼んでおいた。

 神楽さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 だから、本当のことを打ち明けて謝るつもりだ。


 それと……鳴沢は来てくれるだろうか?

 わたしの今の姿を見て、どう思うだろうか?

 ドキドキしながら、旅行鞄を引いて空港の通路を歩いていく。

 

 やがて、通路の先で見知った姿を見つけた。

 髪が伸びて少し大人っぽくなった、るきあだ。

 その向こうに晶、愛ちゃん、神楽さんもいる。

 るきあは、わたしの姿を見て目を瞬いている。

 

「ヒ、ヒロ……?」

「ただいま、るきあ……」

「うん……。おかえりっ!!」


 るきあは、目を潤ませて抱きついてきた。

 ああ、日本に帰ってきたんだ、と実感する。

 

「え、え、え!? なにが、どーなってんの!?」

「落ち着いて、神楽ちゃん」


 晶が苦笑して、神楽さんを宥めてくれている。

 そりゃあ、好きだった人がスカートを履いて現れたら混乱もするよね……。

 わたしは、るきあと離れて神楽さんの前に立った。

 

「神楽さん。ごめん、今まで黙ってて。言えない事情があったんだ」

「うん……」

「でも、神楽さんのおかげで、自分の気持ちに気がつけたんだ。ありがとう」


 あの遊園地の時、神楽さんがオーラの話をしてくれなければ、ここまで自分の気持ちがはっきりとしなかったと思う。

 

「そっか……。香西くんのオーラが、不思議な色をしていた理由、これだったのね……。うん! 正直に話してくれてありがとう!」


 と笑顔で言いながらも、直後に神楽さんは大きくため息をついていた。

 本当に、ごめんなさい……。


「いやしかし、もう気軽に再会のハグとかできないな!」

「ん? 晶なら、全然オッケーだけど?」


 中学と高校で、晶とはよく肩を組んでふざけ合ってた記憶がある。

 

「いや、そこは断れよ!!」


 晶が慌てて手を振った。

 そうか、もうそういうわけにはいかなくなったのか……。

 

「それに、あいつに恨まれそうだしな!」

「“あいつ”って……」


 そういえば、鳴沢の姿がない。

 来てくれなかったのかな、と思ったら、

 

「ヒロ」


 るきあが白い封筒を差し出してきた。

 少しシワができた、なにも書かれていない封筒。

 裏を見ると、開封された跡がある。

 あの時失くしたと思っていたけど、るきあが持っていてくれたんだ……。

 

「向こうで、鳴沢くん待ってるよ」

「……!」


 るきあが視線を移したのは、展望デッキの方だった。

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