Ⅳ_2


 ノーヴィスの手を、メリッサはギュッと握りしめる。その熱が伝わったのか、ノーヴィスの瞳に光が戻った。


 だがノーヴィスは口元に淡く笑みを浮かべると、スルリとメリッサの手の中から己の手を引き抜いてしまう。


「ノーヴィス様?」

「ごめん、ルノ。僕、行けないよ」

「! なぜ……っ!?」

「まだ仕事が終わってないんだ」


 メリッサは愕然がくぜんとしながらノーヴィスを見上げる。そんなノーヴィスの背後でユラリと影がうごめいた。


「ごめんね。、僕の仕事なんだ」


 ノーヴィスは屋敷にいる時と変わらない柔らかい笑みをメリッサに向ける。だがそこに宿る感情は、今までメリッサが見てきた笑みとはベクトルが全く違っていた。


「終わったら、絶対に帰るから。……だから、ルノはまだ、お留守番してて」


 全てを諦めた、絶望にも似た笑顔。


 白銀の髪と黄金の瞳をさらしたノーヴィスは、乾いてひび割れた笑みをメリッサに向けていた。


「……っ!!」


 そんなノーヴィスの笑みに、胸の奥の深い場所がズキリと痛んだ。


 その衝撃が呑み込めず、メリッサはかすれた声を上げる。


「それは、いつなのですか?」


 以前の自分ならば、どんなに理不尽なことを言われても胸が痛むことなんてなかった。どれだけ凄惨な場面に居合わせようとも、その凄惨さに自身が巻き込まれていようとも、一切何も感じずにいられる自信があった。


 だけど、今は。


「もう、一週間、待ちました。でも、ノーヴィス様は、帰っていらっしゃいませんでした。すぐに帰るって、あの時言ったのに」


 自分の心を言葉にすることに意味があるのだと知った。知ったらもう、無関心ではいられなかった。


 だってメリッサの心を知りたいと言ってくれる人がいたから。


 嬉しいと声を上げると、届くと知った。その声に返ってくる言葉の熱が、自分の胸を心地良く温めてくれることを知った。


 だから今は同じように、違う感情を叫びたい。


「どうして、帰ってきてくださらないのですかっ!?」


 悲しいと。


 寂しいと。


 こんなのはもう、嫌なのだと。


「いつまであのお屋敷にひとりでいれば良いのですかっ!? 死んでしまったお屋敷の中で、いつまで待っていれば良いのですかっ!? いつまで待ったら、また名前を呼んでいただけるようになるのですかっ!?」


 真っ直ぐにノーヴィスを見上げた視界がユラリと揺らいだ。一瞬晴れたと思ったのに視界はすぐにまたぼやけてしまう。自分の頬を何か熱い物が伝って落ちていくのが分かったが、気にしていられる余裕はどこにもない。


「どうしてこれがノーヴィス様一人の仕事になるのですかっ!? どうしてこんなに大変なことを、ノーヴィス様が独りで引き受けなければならないのですかっ!? 引き受けるなら引き受けるで、なぜもっと待遇を良くしてもらえないのですかっ!? こんなっ、こんな……っ!!」


 言葉が続いてくれない。息が苦しい。


 呼吸を整えて、魔力回路も整えて、うごめく影を少しでも長く抑えていなければならないと分かっているはずなのに、全然思う通りにならない。


「私はこんなの嫌ですっ!! ノーヴィス様に酷いことをする、こんなの……っ!!」

「……ルノ」


 不意に、メリッサの視界がふさがれた。


 一瞬、影が抑えきれなくなって暴発したのかと思ったが、違う。柔らかい熱をともなった闇は、ノーヴィスの腕の中に抱き込まれたために生まれたものだ。


「それでも、僕がやらなきゃ。僕がやらなきゃ、ルノ達が生きる世界が壊れちゃう」

「っ! だったら! そんな世界、壊れてしまえばいいっ!!」


 優しい闇に包まれることを、メリッサは良しとはしなかった。


 メリッサは衝動的にノーヴィスを突き飛ばす。自分から突き飛ばした上で、自分の手を伸ばしてノーヴィスの胸倉を掴んで、自分の元へ引き寄せた。さすがにノーヴィスもメリッサがこんな荒っぽいことをするとは思っていなかったのだろう。黄金の瞳が丸く見開かれる。


「たった一人に依存しなければ成立しない世界なんて、最初から破綻が見えていますっ! そんな世界さっさと壊して、世界ごと作り替えた方がまだマシですっ!!」


 その瞳を真正面から覗き込み、メリッサは挑むようにノーヴィスに言葉を叩き付けた。


「私には世界だとかなんだとかそんな漠然とした大きな物よりも……っ!!」


 無茶苦茶なことを言っているな、という自覚はあった。


 だけどもう、走り始めた気持ちは止まらない。


「ノーヴィス様がいる、あのお屋敷での生活の方が大切で、あのお屋敷が私にとって世界の全てですっ!!」


 王権争いも、国も、世界も、どうでもいい。


 柔らかな日差しの下にノーヴィスがいて、柔らかく笑って『ルノ』と名前を呼んでくれれば、メリッサは世界が滅んだって気にしない。


 ──なんてワガママで、凶暴な願い。


 メリッサは今、心の底からはっきりと、世界よりも自分とノーヴィスの平和でささやかな日常を選んだ。


 こんな凶暴な願いを自分が抱く日が来るなんて、思ってもいなかった。何を望むこともないと、諦めきって生きてきたのに。


「ノーヴィス様が捨て切れないというのであれば、私が強制的に捨てさせますっ!! 私が、ノーヴィス様を縛る世界を終わらせますっ!!」


 そんな自分が今、世界を終わらせてでも、ノーヴィスを連れて帰ると叫んでいる。


「……なんってこと言うのさ、ルノ」


 そんなメリッサにノーヴィスが返したのは、あまりにもいつもと変わらない、柔らかな笑みだった。


 いや、ずっとノーヴィスの瞳を真正面から見据えていたメリッサには分かる。


 その黄金の瞳が、ハチミツのように甘くとろけたことが。


「そっか、いらないか。こんな世界、いらないって言ってくれるんだ」


 笑みとともに言葉を紡ぐノーヴィスの声音は、感情を含んでうるんでいた。さっきまで乾き切ってひび割れていたのが嘘であるかのように。


「ルノ。……君は本当に、黎明のように美しい」


 その声にメリッサは息を詰めてノーヴィスを見上げた。メリッサの涙を丸めた指の背で払ってくれたノーヴィスは、そんなメリッサに笑いかけるとそっと瞳を閉じる。


「僕にとって君は、新しい世界を導いてくれる、黎明なんだ」


 祈るように瞳を閉じたノーヴィスは、そっとメリッサの額に己の額を預けた。コツンと伝わる衝撃に、メリッサも思わず瞼を閉じる。


「ルノ。僕の黎明。……君が世界よりも僕を望んでくれるのならば、どうか僕の名前を呼んで」


 視界が閉ざされた分、ノーヴィスの声はより深くメリッサの意識に溶けていく。


 心地よく、柔らかく、甘く。


「僕の、本当の名前はね……」


 その声でノーヴィスは、何よりも大切な名前を教えてくれた。





「ルイス、様?」


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