Ⅰ_Ⅱ


 ──どこから、カサブランカは仕込んでいた?


 黙々と手を動かしながら、頭の中ではそのことばかり考えていた。


 レンシア通りを堕としたのは、ノーヴィスに派手に力を使わせて表に姿を引きずり出すため。あとは『盗品』が置かれた屋敷を無人にするためだ。


 レンシア通りはノーヴィスの支配領域であったはずだから、乗っ取るためには前々から仕込みが必要だったはず。もしかしたらあの影の中にノーヴィスの魔力痕を色濃く残すために、前々から影に対してノーヴィスが強く力を使うような仕込みもされていたのかもしれない。


 エドワードの役割は、『盗品』と難癖をつけるための手帳を屋敷に残すことと、一度屋敷の中に足を踏み込んで中と外を繋ぐパスを創り出すこと。


 恐らくあの手帳は盗品などではなく、何らかの理由でノーヴィスに罪を被せたかった第二王子がカサブランカに預けた代物だったのだろう。


 詳細不明の魔法道具を無人の屋敷の中に残して出かけなければならなくなったら、魔法使いであれば誰でも己の手で厳重に封じをかけ直す。『盗品』からもノーヴィスの魔力痕が出れば『こうやって封じて盗み出したのだろう』と罪をでっちあげることだってできる。


 エドワードがやってくる前に影が屋敷の中まで攻撃してきたのも、恐らくこの計画を遂行するための布石だ。


 屋敷の中まで襲撃されたとなったら、守りを固めるために屋敷を縮めて範囲を狭めた上で魔力密度を上げようと考えるのはいたって一般的な考え方であるはずだ。


 だがサンジェルマン伯爵邸では、あの複雑怪奇で勝手に増殖を繰り返す屋敷そのものが防犯の役目を担っていた。余分な枝葉を切り落とし、普通の屋敷と変わらないくらいシンプルな造りになった屋敷は、さぞ突破しやすかったことだろう。


 ……いや、この計画は、もっと前から実行に移されていたのかもしれない。


 ──私が、いたから。


 モップを動かしていた腕がピタリと止まる。モップの先を見つめた視線は動かない。


 ──私がいたせいで、エドワードを屋敷の中に入れることになった。私があの廊下にいたせいで、影の襲撃を受けた。


 もしかしたらノーヴィスは、あの広場で近衛兵に捕まった時だって、メリッサがいなかったら自分だけで身軽に逃げ出せたのかもしれない。メリッサを敵の手から逃すために、あえて自分は捕まったのかもしれない。


 メリッサさえ、いなければ。


 メリッサさえ、ここにやってこなければ。


「……ノーヴィス様」


 メリッサはモップのにすがりながらズルズルと座り込んだ。細く漏れた声が揺れている。


「いつになったら、帰ってきてくださるのですか……?」


 留守番を任された。だからメリッサはここにいる。ピカピカに屋敷を磨き上げて、いつノーヴィスが帰ってきてもいいように食事もお菓子も用意して、ずっといい子でメリッサはノーヴィスが帰ってくるのを待っている。


 それでも、ノーヴィスは帰ってこない。すぐに帰ると、言っていたのに。


「名前を、呼んでください」


 メリッサが屋敷に魔力を通しても、屋敷は生き返らなかった。どれだけファミリア達の名前を呼んでも、彼らは姿を現さない。


 ルノ、と。誰も呼んでくれない。


 呼んでもらえなければ、それは存在していないのと同じこと。


「ルノって、貴方の声で、呼んでください……っ!!」


 やっと願いを口にすることができたのに、その声はもう届かない。


 ──……疲れちゃった、な……


 モップを支える手に力が入らない。座るために背筋に力を入れ続けることさえ億劫おっくうだ。


 ──ここ数日、まともに寝てないから……


 眠って、目覚めて、ノーヴィスもファミリア達もいない屋敷と改めて向きなおらなければならないのが怖かった。だからメリッサはずっと、昼夜を問わずに屋敷の掃除をし続けている。


 だが心がどれだけ拒否していても、深く口を開けた眠気に肉体はあらがえない。


 グラリと体が揺れる。同時に意識が落ちたのか、メリッサはそのままトプンッと深い闇の中へ落ちていった。水の中へ沈んでいくかのように、体はゆったりと、どこまでも闇の中を落ちていく。


 ──これは、夢?


 落ちているのに浮力も感じる不思議な感覚にメリッサは気だるくまぶたを上げる。


 どこまでも、視界は暗い。


 ──ノーヴィス様が帰ってこないならばいっそ、何も見えず、何も聞こえない闇の中に埋もれていた方が、幸せなのかもしれない。


 そんな内心とともに、メリッサはゆっくりと瞼を閉じようとする。


 だが閉じ切る直前、一瞬、視界の先に光が走った。


 ──あれは……?


 その光に、見覚えがあったような気がした。


『消えて』


 芯を貫く光は白銀。その周囲に舞う燐光は黄金。


 そんなまばゆい光を放ちながら、白銀はひたすら凶暴な言葉を吐き続ける。


『消えて、消えて、消えて、消えてっ!!』


 白銀が叫ぶたびに周囲を埋め尽くした闇がわずかに消える。だがどれだけ白銀が叫んでも力を振るっても、後から後から湧き出る漆黒は空間を埋め尽くし、白銀を飲み込もうとするかのように纏わりつく。白銀に対して影が圧倒的に多すぎるのだ。


『さっさと全部消えてよ……っ! 帰らなきゃいけないんだからっ!』


 叫びとともに、より強く白銀が爆発する。


 一瞬明瞭になった視界の先に、ジャラリと重い鎖が揺れた。


『待っててって言ったんだ! 絶対に待っててくれるんだからっ! あの子が、僕を、待っていてくれるはずなんだからっ!!』


 ──ノーヴィス、様?


 その悲痛な叫びに、重い金属音に、徐々にメリッサの意識が開いていく。


『帰るんだ……っ! こんなの、さっさと全部蹴散らして、ルノのところに帰るんだ……っ!』


 ドロリと粘性が高い漆黒の海の中に立つノーヴィスは、両手をかせいましめられ、両足も太い鎖に繋がれていた。


 夜色のローブも、いかにも魔法使いといった風情の杖もない。白いシャツは纏わりつく漆黒になぶられて煤け、足元は鎖に繋ぐためなのか裸足はだしだった。そんな中、魔力が起こす暴風に揺れる白銀の髪と、強い意志が宿る黄金の瞳だけがまばゆく光り輝いている。


『ルノのところに帰るんだから……っ!!』


 ──ノーヴィス様っ!!


 帰りたい、と願ってくれているのか。『屋敷に帰りたい』ではなくて『ルノのところに帰りたい』と言ってくれるのか。


 こんなに切望してくれているのに、何がノーヴィスを阻んでいるというのか。その全てを投げ出すことはノーヴィスには許されないのか。


 なぜ、ノーヴィスがこのような責め苦を負わされなければならないのか。


『帰らせろよぉっ!!』


 強く叫ぶノーヴィスが、なぜか泣いているように思えた。


 思わずメリッサはノーヴィスの名を叫びながら手を伸ばす。だが遠く離れた場所をゆったりと落ちていくだけのメリッサが手を伸ばしたところで、何も景色は変わらない。


 メリッサの体はさらに闇の中へ落ちていく。ノーヴィスとの距離は開くばかりだ。


 ──ノーヴィス様っ!! ノーヴィス様っ!!


 必死に叫んでいるはずなのになぜかメリッサの声は音にならない。


 白銀と黄金の光はやがてメリッサの視界から消えた。それでもズブズブと沈んでいくメリッサの体は止まらない。


「……ノーヴィス様が、自力でご帰宅するのが困難な状況にあるというのであれば」


 これは、夢だ。夢ならばメリッサの努力で目を覚ますことができる。


「ノーヴィス様のメイドである私が、お迎えに上がります」


 同時にこれは、ただの夢ではないとも思った。


 ノーヴィスに会いたいと切望した自分が見た妄想であるのかもしれない。それならばそれでいいとも思う。ノーヴィスがこんなに悲痛な叫びを上げていないのであれば、それが一番いいに決まっているのだから。


「留守番からお出迎えに、業務を移行いたします」


 メリッサは無理やり言葉を吐き出すと静かに瞳を閉じた。


 夢を終わらせるのは得意だ。カサブランカの家にいる時に見ていた夢は、大抵ろくでもない悪夢ばかりだったから。


 ──そこでつちかった技術を今、違う場所で生かすことができる。


 体が沈んでいく感覚が薄らいでいく。代わりに体に伝わってきたのは冷たい床の感触だった。夢が遠ざかり、体が目覚めようとしている。


 ──その転機をくれた貴方を、私は助けたい。


「……」


 メリッサはパチリと目を開けた。横に倒れた視界には、投げ出されたモップが映っている。


 現実世界の光景の中に自分がいることを数秒かけて確かめたメリッサは、ムクリと起き上がるとまずはモップを片付けた。それから厨房に向かい、用意してあったお菓子を片っ端から胃に詰め込む。


 腹ごしらえを済ませた後に向かったのは、このひと月で随分と物が増えた己の自室である。


 何かと理由を付けてはノーヴィスが買ってくれた品々が大切に収められている部屋の中で、メリッサが手を掛けたのはこの屋敷に来た時に持参した革のトロリーケースだった。


 トロリーケースの留金を開いて中の物を全て取り出したメリッサは、トロリーケースの奥角にある細工を引っ張った。特殊な細工がほどこされたトロリーケースは、持ち主の命に従い上げ底をバカリと開く。


 隠された空間の中に収められていたのは、三本の鍵が通された銀の鍵束と、鍵束と同じ色合いの刃を持つ短剣だった。


「……」


 メリッサは数秒だけ、無言のまま鍵束と短剣を見つめる。


 ──お父様。


 この嫁入りに際して、メリッサが唯一持ち込んだ『持参材』と呼べるこのふたつは、父から贈られた物だった。


 あの冷たい家の中で、どんな時でもメリッサと同じ側に立っていてくれた父は、一体どんな気持ちでメリッサをノーヴィスの元へ送り出したのだろうか。


 ──この屋敷のことを調べた時、私はカサブランカの家に捨てられたのだと思いました。


 きっと母はそのつもりだったのだろう。マリアンヌはきっといつものごとく何も知らないに違いない。


 ならば、メリッサの嫁ぎ先をここに決めたという父は。


「……」


 一度迷いを振り切るようにまばたきをしたメリッサは、答えの出ない問いから意識を切り離すと、鍵束をコルセットベルトに繋ぎ、短剣を後ろ腰に装着した。


 空になった隠しを元に戻し、その上にトロリーケースの中から取り出した品を戻して留金をかけ直したメリッサは、小さく息をいてから立ち上がる。


 ガウンコートのフードを目深に被りながら部屋を出たメリッサの瞳には、もう迷いの欠片はなかった。

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