Ⅲ_1


「いやぁ、ルノ、すごいっ!!」


 少し遅くなった3時のお茶会では、ノーヴィスの笑い声がずっと響いていた。


「格好良かったよ! 割って入るのを我慢したかいがあった!」

「……恐縮ですが、お恥ずかしい限りです」


 屋敷の構造が変わっても、ノーヴィスの根城である温室のような居間に変化はなかった。


 定位置である三人掛けソファーに座ったノーヴィスと対面に置かれた一人掛けソファーに腰かけたメリッサは、間にティーセットが置かれたテーブルを挟んで3時のお茶会を楽しんでいる。


 結局きょうされる飲み物は輪切りのレモンを浮かべた温かい紅茶になった。アイスティーを仕込む時間もレモンスカッシュを用意する時間も、エドワードを相手にしていたせいでなくなってしまったからだ。


 それでもノーヴィスは美味しそうにレモンティーを傾け、ありあわせのクッキーをモリモリとまんでいる。


「あんなこともできたんだね。ルノはほんとにすごい子だねぇ」

「自分でも、あそこまでのことができたとは、驚きです……」


 メリッサは手のひらを温めるように両手でカップを持つとカップの中に落とし込むようにして呟く。無作法な仕草だとは分かっているのだがノーヴィスは決して怒らないと知っているし、とてもじゃないが今は真っ直ぐに顔を上げていられない。


 ──あんなことを、やってしまうとは……


 カサブランカの家にいた頃は、誰に何を言われても心が動くことはなかった。どれだけけなされても、どれだけ理不尽なことを言われても、自分をどう利用されても、何も思うことはなかった。


 だがあの瞬間は、我慢ができなかった。


 恐らくそれは、エドワードがメリッサをダシにしてノーヴィスに理不尽を押し付けようとしていたからだろう。メリッサのせいでノーヴィスまでもがカサブランカの理不尽にさらされることが、メリッサには我慢できなかった。


 ──不思議です。私は、こんな風に怒ることができたのですね。


 怒りなんて感情は、もう自分の中にはないのだと思っていた。


 それに実質カサブランカの家に……母に反旗を翻したことに後悔をしていないというのも、なんだか不思議な心地がした。


「まぁ、あれだけルノが格好良く叩き出してくれたわけだし、あの子は多分二度とここへは来ないだろうからそこはいいとして」


 ひとしきり笑い終わったノーヴィスは、手に付いたクッキーの屑をパンパンッと払うとテーブルの端へ視線を投げた。


「問題は、置き逃げされた『これ』をどうするかだねぇ」


 そこにはエドワードが依頼品として持ってきた手帳が置かれていた。ちなみに金貨の袋はない。メリッサにグレイブを突き付けられたエドワードは、金貨の袋だけを引っ掴んで脱兎のごとく逃げていったので。


「……私の身内がご迷惑をお掛けして、大変申し訳ありません」


 これでは依頼の押し付けだ。しかもタダ働き。とてもじゃないがプラチナランクのマギカ・封印士テイカーに仕事を頼む態度ではない。


「ルノが謝ることじゃないよ。あの子にも言ったけど、ルノとルノの身内は別の存在だから」


 ティーカップを机に戻して深々と頭を下げたメリッサに対して、ノーヴィスは軽やかに答えた。


「あいつらがルノを引き合いに出して僕に仕事を強要できる筋合いもなければ、逆にルノが責任を感じる必要性もないんだよ」


 どうやらノーヴィスは本当に何とも思っていないらしい。チラリと視線を上げて表情をうかがってみても、ノーヴィスはいつものように穏やかな笑みを広げている。


 それが分かったメリッサは、姿勢を正して気持ちを切り替えるとノーヴィスと一緒に手帳に視線を落とす。


「それは一体、どういった魔法道具なのでしょうか?」

「うーん……。一切説明していかなかったから、自分で解析して調べるよりないよねぇ……」


 ノーヴィスは手を伸ばすと手帳を手に取る。


 ノーヴィスの手より一回りくらい小さい、黒い革で装丁された手帳だった。大きさと薄さでメリッサは『手帳』と判断したのだが、装丁だけを見ると『本』と呼びたくなるようなしっかりした作りをしている。


 すでに一通りの封じは掛けられているのか、手帳は開かないように細い銀鎖ぎんさいましめられていた。その隙間からわずかに魔力が漏れているのを感じるから、確かに何かの魔法道具ではあるのだろう。


「あの部屋ごと、屋敷から切り離すわけにはいかなかったのですか?」


 ふと思い立ったメリッサは、素朴な疑問を口に出した。


 エドワードを叩き出した後、ノーヴィスはエドワードを通した応接間を屋敷から消してしまった。恐らく最初からそうするつもりであの応接間に通したのだろう。部屋の中から持ち出してきたのはエドワードが置いていったこの手帳だけである。


「そうしちゃいたかったのは山々なんだけども。ほら、さっきの襲撃の件もあるじゃない? 切り離すためには一時的に不確定要素を屋敷に飲み込ませる必要があるから、それが嫌だなぁって思って。それに」


 ノーヴィスは一度言葉を切ると手の中にあった手帳をテーブルに戻した。そのままポンポンッとノーヴィスの手はいたわるように手帳を撫でる。


「できれば無闇に存在ごと消したりしないで、平穏に眠ってもらいたいから」


 ノーヴィスはメリッサが思わず息を詰めるくらい、穏やかな表情を浮かべていた。まるで時を経て再会した同士を見るような顔だと、メリッサは思う。


 そんなノーヴィスの表情が、メリッサは嫌いじゃない。


「それでは、しばらくはその子に向き合うことになるのですか?」

「そうだね。じっくり対話してみるよ。ここに置いておくけど、どんな子か分かるまで、ルノは触らないようにしてね」

「承知いたしました」


 この手帳も、やがては屋敷のどこかで優しい眠りにつくのだろう。そんな未来を想像すると、メリッサの胸はほのかに温かくなる。


 だがその温かさを噛み締めている暇はメリッサに与えられなかった。

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