Ⅰ_3

「え?」


 もう一度魔導書を慈しむように撫でたノーヴィスは、メリッサに視線を向けながら柔らかく言葉を紡いだ。


 疑問ではなく確定の形で向けられた言葉にメリッサはたじろぐ。


「君が暴走させちゃう魔法道具は、みんな本の形をしていたから。他の形をしている道具はどんなに上手く擬態している物でも適切な処置をしているのに、本にはどうも弱いみたいだから。好奇心に負けて開いちゃうのかなって思ったんだ」


 なぜそう思ったのか理論立てて説明してくれたノーヴィスは片足を上げるとチョンチョンッと爪先で床を叩いた。たったそれだけでげた床はユラリと揺らめきながら元の光沢を取り戻してく。ノーヴィスが再び足を床に戻した時には、メリッサが焦がした床は何事もなかったかのような顔でノーヴィスの足元に納まっていた。


「最初はただ好奇心が強いだけなのかなとも思っていたのだけれども、それじゃあ他の魔法道具に適切に対処できているのはどうしてだろうってなるし。それに、君の口からは僕に対して質問が出ることはあまりないから。だから好奇心が強いっていうよりも、本が好きなのかなっていう結論に至ったんだけども」


 どうかな? とノーヴィスはまた小首をかしげながら微笑んだ。ノーヴィスは本当によく首を傾げている。


 問われたら、答えなければならない。メリッサはノーヴィスの使用人だし、そうでなくても質問を無視するのは失礼なことだ。


「本、は……。確かに、好きですが……」


 本は、様々なことをメリッサに教えてくれる。


 そしてメリッサが無知であっても、決して叱責をしてこない。どんな疑問を抱いていても、己の身に刻み込まれた知識を余すことなく教えてくれる。


 自分から書に当たることと観察は得意なメリッサだったが、己の疑問点を誰かにぶつけるのは苦手だった。相手の時間を奪うことで叱責が飛んでくることも、『その程度も分からないとは』とあきれられたことも、過去に何度もあったから。


 ──ノーヴィス様は、問えば答えてくださる方かもしれないと、感じているのですが……


 家事を片付けながら時折見かけるノーヴィスは、いつも魔法道具や魔導書に囲まれている。起きていても、寝ていてもだ。


 温室に似た居間のソファーで何かをやっていて、そのまま寝落ちてしまったように眠る。メリッサの目には暇を持て余しているようにも忙しそうにも見えて、いまいち判別がつかない。


 ──やはり、お邪魔をしてしまうのは、良くありません。


 どうしてもメリッサでは判断がつかないことをたずねる時や、食事ができた時、今みたいにやらかしてしまった時は、タイミングを見計らってノーヴィスに声を掛けている。そんなメリッサをノーヴィスが邪険に扱ったことは今のところない。何をしていても、それまでどんな表情をしていても、メリッサが声を掛ければノーヴィスは柔和な笑みを向けてくれる。


 それでもメリッサは、どうしても、必要以上のことでノーヴィスに声を掛けることができない。


「……学ぶこと全般が、好き、です」


 言葉を躊躇ためらわせた数秒で、胸に渦巻く思いの中からようやくそれだけの言葉をひろい上げた。


 そんなメリッサにも、ノーヴィスは変わらず穏やかに頷いてくれる。


「そうなんだね。魔法学院の生徒さんなんだし、それもある意味当然なのかもね」

「あ……」

「そういえばこの数日ずっと家にこもりっぱなしだけど、魔法学院には行かなくていいの? 講義、あるんでしょう?」

「え……あ」


 なぜ、という疑問が一瞬ぎって、自分がこの家に来てからずっと魔法学院の制服で過ごしてきたことにようやく思い至った。


 ノーヴィスからこの服装に関して特に指摘を受けることもなかったから、ノーヴィスが制服姿のメリッサに何を思っているのかも、そもそもこの服が魔法学院の制服であることを知っているのかさえも把握していなかった。まさかノーヴィスがメリッサのこの制服姿を『魔法学院に通うために着込んでいる』と解釈しているとは。


「あの、……多分、学院は、退学、させられているかと……」

「え?」

「嫁入り、したから。……普通は、学校には、通えなくなるもの、かと」

「……そういうものなの?」

「世間一般では、……そうなのではないでしょうか?」


 歯切れが悪くなったのは、実際に結婚を理由に退学した前例を耳にしたことがなかったからだった。


 そもそも魔法学院は『高位魔法使いを育てるためのまな』ではあるが、貴族令嬢が通う場所ではない。


 貴族令息ならば社会勉強という名目で入学することもあるが、『身分の高い令嬢は家のために結婚し、子を成すことこそ役目』という風潮が強いこの国では、女性は身分が高ければ高いほど家の中で囲われて育つ。


 難しい学術書よりも優美な言葉がつづられた詩集を、ペンを握るよりも刺繍のための針を、答弁で口を動かすよりも愛らしいお喋りを、というのが貴族令嬢に求められる物だ。


 ──マリアンヌは跡取り娘と目されていたから、世間一般よりももう少し教養を求められていたように思えましたが。


 だがそれも『そこそこ』であって、本格的に求められていたわけではない。各種家庭教師が屋敷まで通って授業をしていたが、やはりダンスや楽器、刺繍の先生が居座っている時間の方が長かったと思う。唯一、カサブランカの家名のためなのか、魔法教育だけは令息並みに詰められていたようだが。


 とにかく、魔法学院に通う女性は卒業したら魔法使いとして生計を立てたい、王宮に仕官したいと考えている庶民階級の者がほとんどだ。まだ位が低い子爵や男爵の三女、四女くらいの令嬢ならば何人かいたが、メリッサのような侯爵の長姫、場合によっては婿を取って家を継ぐかもしれない、などという立場の女性が入学するなど、前代未聞の珍事であったと言ってもいい。


 よって、結婚を理由に退学しなければならないような身分の女性が、そもそも魔法学院には存在しないのである。


「私が制服姿なのは、この服が動きやすいからで……」


 ついでに言えば、他にまともな服を持っていないという理由と、魔法学院へのわずかな未練もあったのだが、そこはあえて口にしなくてもいいだろうとメリッサは途中で口をつぐむ。


 マリアンヌの護衛任務に就くにあたって『動きやすくて礼を失しない服装』というのは重要なポイントで、これに見事合致する服装が魔法学院の制服だった。それもあって実家でもいつも制服を着込んでいたら、いつの間にかまともなドレスの手持ちがなくなっていたのである。


「そうだったんだね」


 メリッサがぼかした言葉をどう受け取ったのか、ノーヴィスはあごの下に片手を添えると視線を宙に投げた。何事かを思案している気配を察してノーヴィスを見上げると、メリッサの肩に留まっていたロットがフワリと宙に舞い上がる。


『アーッ! ノーヴィス! ソモソモ用ガアッタカラ メリッサヲ探シテタンダロォッ!?』

「……あ。そうだった」


 けたたましく声を上げながらロットは軽やかにノーヴィスの肩に舞い降りる。そんなロットの声で我に返ったのか、ノーヴィスは視線をメリッサに引き戻すと用件を切り出した。


「ちょっと買い出しに出ようと思って。それで探してたんだ」

「買い出し、ですか?」


 思わぬ用件にメリッサは小首を傾げて主とファミリアを見上げる。


 ──私がここに来てから、ノーヴィス様がお出かけになるのは初めてのことですね。


 メリッサはそんなことを内心だけで思ったが、声には出さなかった。そんなメリッサに気付かないノーヴィスは柔らかな笑みを浮かべたまま言葉を続ける。


「うん。ちょっと繁華な所まで出ようと思ってさ。良かったら君にも同行してもらおうかなって考えてたから、ロットさんと一緒に探してたんだ」


 この3日間たまたまノーヴィスに出掛ける用事がなかっただけなのか、それともノーヴィスが出不精な性質たちであるのかはメリッサには分からない。


 だが貯蔵室に勝手に補充されていく食材や、魔力を通せば勝手に水があふれ出す洗い場、極めつけは外に出た気配がないのに勝手に増えていくガラクタ……もとい魔法具達を見ていたメリッサは、何となく『外に出掛けなくても生活していける魔法回路がこの屋敷には緻密に仕込まれている。つまりノーヴィス様は極力外には出たくない引き籠りである』と勝手に判定していた。


 ──思い切って直接たずねれば、答えていただけるのかもしれませんが……


 そもそも、ノーヴィスがどうやって生計を立てているのかもメリッサには分からない。


『魔法伯』は領地を持たない貴族であるから、一般的な貴族にはある『領地から勝手に上がってくる収入』という物はノーヴィスには一切ないはずだ。魔法伯は魔法議会に議席を持っているはずだが、ノーヴィスがそちらに出掛けた気配もない。ノーヴィスの素性は相変わらず謎に包まれたままだ。


 ──……私が、訊ねたら。


 ノーヴィスは、答えてくれるだろうか。


 それとも、踏み込みすぎだと怒られるだろうか。教えてくれるにしても、不愉快な思いを抱くのだろうか。


「一緒にお出かけ、してくれる?」


 そんなことを思っていたメリッサは、メリッサの顔をのぞき込むように首を傾げたノーヴィスに気付いてはっと我に返った。


 ──いけません。こんなことを考えている場合じゃない。


うけたまわりました」


 外出先への付き添いということは、メリッサに求められるのは従僕としての役割だ。『繁華な所』と言っていたから、もしかしたら護衛業務も求められているのかもしれない。


 いずれにしろ、この1日半の失態を取り戻す格好の場であることに間違いはないだろう。


 ──荷物持ちでも、ガイドでも、護衛でも、少しでもお役に立たなければ。


「良かった。じゃあ、準備ができ次第、出かけようか」


 メリッサが内心でやる気をみなぎらせていることなど知るよしもないノーヴィスは、嬉しそうに笑いながら身を引いた。


「僕はいつもの場所で待ってるから、用意できたら呼んでね」

「はい!」


 歯切れよく返事をしたメリッサにひとつ頷いたノーヴィスは、普段よりも軽やかに響く足音を引き連れて先に部屋を出ていった。そんなノーヴィスを見送ったメリッサも、箒を部屋の片隅に立てかけると支度をすべく自分に割り当てられた部屋へ戻っていく。


「そういえば、お出かけの用向きをうかがうのを忘れましたね」


 もし荷物がかさばることが事前に分かっているならば、馬車なり何か手配をした方がいいのだろうか。


 そんなことを頭の片隅で思いながら、メリッサは自室のドアを開いて準備に取り掛かった。


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