Ⅰ_2


 ──そういえば、名前も、呼ばれたことがありませんし……


 ノーヴィスを呼ぶ時は名前で、という注文が入ったにもかかわらず、そういえばノーヴィスがメリッサの名前を呼んだ所を聞いたことがない。


 ──ノーヴィス様にとって、私は……呼ぶ価値もない人間、ということでしょうか?


 名前を呼ぶ、ということは、その存在を認識する、という行為に他ならない。『名前は一番短い魔法』とも言われている。誰かに名前を呼んでもらえて初めて、何かは『何か』になれるのだ。


 ──ノーヴィス様は、


 ほうきを持つ手に、不自然に力がこもった。


 ミシリと軋んだ音が上がるが、不思議と自分の手に痛みは感じない。昔からメリッサは痛覚が鈍くて、そのおかげで武芸訓練や護衛業務の時はちょっとだけ楽ができた。


 ──ここに私がいてもいなくても、きっと、大して変わらないのでしょうね。


 だというのになぜか今は、体の奥のどこかが痛むような気がした。


 そんな己の不調を察したメリッサは、緩く首を振ると意図して両手から力を抜く。


「いけませんね。こんなことでは」


 次いで意図して内心を声に出すことで強制的に息を吐き出す。


 その瞬間、頭上から頓狂とんきょうな声が響いた。


『アーッ! メリッサ! ドォシタヨォッ!?』


 気配も風切り音もさせない登場に驚いて顔を上げれば、メリッサの動きに答えるかのように極彩色の影が躍る。その姿を見て取ったメリッサは思わず名前を呼んでいた。


「ロットさん」

『ヨゥ! 今日モ御苦労様ァ! 勤勉デ偉ァイッ!!』


 唐突に現れたロットはけたたましく叫ぶと机の上に積み上げられた本の上に舞い降りた。片付け途中の部屋をグルリと見回したロットは、氷漬けにされた魔導書と焦げた床、箒を持つメリッサを順繰じゅんぐりに眺めると小首をかしげる。


『ソイツ凶暴ダッタダロ? 怪我シテナイ? ノーヴィス呼ブ?』

「怪我はしていませんが、床をがしてしまいました。ノーヴィス様の所には謝罪にうかがいたいと思います」

『床クライ イクラデモ焼キャイイ。ソンナ危ナイ物 適当ニ放置シタ ノーヴィスガ悪ゥイ!!』


 けたたましく叫んだロットはフワリと舞い上がるとメリッサの肩に舞い降りた。体が大きく鉤爪かぎづめも鋭いのに、加減をしてくれているのか肩に留まられても痛みは感じない。


『怪我 ナクテ良カッタ。メリッサ 優秀』


 そのままロットはスリッとメリッサの頬に頭を寄せた。屋敷の中は不思議とどこも日差しが入るせいか、体を寄せてきたロットからはお日様のいいにおいがする。


「優秀な人間は、魔導書を暴発させたり、床を焦がしたりしません」


 心休まるにおいに、心のかせが緩んだのかもしれない。


 鳥類特有の高い体温とお日様のにおいに誘われたかのように、メリッサはポロリと内心をこぼしていた。


「ノーヴィス様やロットさん達に褒められるようなことを、私は何ひとつとしてできていません」

『何言ッテルノォ~。コノ屋敷デ平然ト生キテテ、家事マデシテル。ソレダケデ メリッサハ トッテモスゴォイ』


 メリッサの耳元にいるせいなのか、ロットの声はささやくように小さくて柔らかかった。スリスリと寄せられる熱が、なんだかとても心地良い。


 だがメリッサはどうしても、ロットが口にする言葉を受け入れることができなかった。


 ──不出来で、訳の分からないことを言いながら押しかけてきた私を、ノーヴィス様は優しく応対してくださって、さらにはここに置いてくださった。


 行く場所がなかったメリッサに、ノーヴィスは居場所をくれた。


 その恩に、メリッサはむくいたい。できることなら、他の誰でもいいのではなくて『メリッサ』にここにいてもらいたいと、思ってほしい。


 ──役にも立てていないくせに、何を浅ましいことを。


 自分の心に湧いた思いを、メリッサをまばたきひとつで踏み潰す。不出来な自分に、そんなことを思う資格などない。


 そんなことを思った瞬間、廊下からかすかな足音が聞こえた。メリッサとノーヴィス、あとは鳥類のファミリアしかいないこの家で足音がするとなれば、登場する人物は一人しかいない。


「やぁ、ここにいたんだね」


 案の定、登場したのはノーヴィスだった。


 今日も今日とてだらしない姿で現れたノーヴィスは、夜空を思わせるローブを引きずりながら部屋の中に入ってくる。かかとが高い靴を履いているノーヴィスが歩くと、そこが屋敷のどこであってもノーヴィスの足元からはコツコツと心地良い足音が聞こえあ。


「お掃除ありがとう。あぁ、ここはこんな感じの部屋だったんだね。……おっと」


 瞳を細めて部屋を眺めていたノーヴィスの目が、げた床と氷漬けにされた魔導書に留まる。


 それを察したメリッサは、ノーヴィスが口を開くよりも先に姿勢を正して深く頭を下げた。


「申し訳ございませんでした」

「うん?」

「魔導書と気付かず開いてしまい、暴走させ、結果床を焦がしてしまいました。私の失態です。申し訳ございません」

「うん。そこは全然問題ないんだけども……」


 ノーヴィスはメリッサの前まで歩を進めると、何かを観察するかのようにメリッサに視線を落とす。それを気配で察したメリッサは、深く下げていた頭をソロソロと上げた。


 メリッサと視線が合ったノーヴィスは、かすかに小首を傾げながら不思議な要求をメリッサに突き付ける。


「しゃんと立ってみて」

「はい?」


 意図は分からなかったが、反射的にメリッサは背筋を伸ばす。


 そんなメリッサに視線を落とし、ついでにメリッサの手から箒を取り上げたノーヴィスはさらなる要求を口にした。


「そのままクルッと回ってみせて」

「クルッと、ですか?」


 相変わらず意図は分からないが、主の要求には内容がよほど不当でない限り従うべきだ。


 メリッサは右足の爪先に重心を預けるとクルリとその場で優雅にターンを決めた。白いプリーツスカートがふわりと広がり、美しいシルエットを描き出す。ポニーテールに結った髪がその動きに追従するかのように揺れ、丈の短いジャケットは束の間空気をはらんで浮き上がる。


「うん」


 そんなメリッサをひどく真剣に見つめていたノーヴィスは、再びメリッサと視線が合うと安堵あんどしたかのように瞳を細めた。


「良かった。怪我も、服に焦げ目もないみたいで」

「え?」


 思わぬ言葉にメリッサはノーヴィスを見上げたまま目をしばたたかせる。


 そんなメリッサにノーヴィスは再び小首を傾げた。


「僕が見た限り、服に焦げ目らしき汚れは見つからなかったし、動きもとてもなめらかで、不自然な点もなかった。魔力回路も安定しているようだし、君の言葉には無理をしている気配もない」


 だから君が無事だということは確固たる事実なのだと分かって安心したんだよ、とノーヴィスは続けた。


 そんなノーヴィスに対して、メリッサはさらに目を瞬かせる。


 ──今の一連の要求は、私の無事を確かめるためのものだった……?


「こいつ、狂暴だったでしょ? これっぽっちの被害で食い止めたなんて、やっぱり君は優秀なんだね」


 思わぬ言葉にほうけていたら、ノーヴィスの視線は氷漬けにされた魔導書に向けられていた。カツ、コツ、とかかとを鳴らしながら魔導書に近付いたノーヴィスは『よっこいしょ』と掛け声をかけながら魔導書を持ち上げる。


「『煉獄の使者ダンダリアン』って名前でね。高位炎術魔法を誰でもお手軽にあつかえるようにって生み出された魔導書だったんだけど、結局創り手も周囲も制御ができなくて。危うく町をひとつ焼き払いそうになったところを何とか封じて、まぁ後は流れで僕のところにやってきたって感じかな」


 今にも燃え上がりそうな深い赤色の革で装丁された本を、ノーヴィスは慈しむように撫でた。たったそれだけでメリッサが渾身こんしんの力を込めて放った氷結魔法はベールを脱ぐかのように取り払われていく。一瞬また本が火を噴き始めるのではないかとメリッサは身構えたが、ノーヴィスの腕の中に納まった魔導書は静かなままだった。そうしているとただ美しいだけの普通の本であるかのように見える。


「君は、本が好きなんだね」

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