第56話 さようなら、豊穣の女神

「アユハ!」


 ドロシーの声が頬を打った。

 ふとそちらを見れば……おいおい、なんて表情してるんだよ。

 どこか辛そうに、どこか心配そうに――ただ俺を案じている様子のドロシーの姿がそこにはあった。


 だから、大丈夫だよ。と微笑んでみせる。


「さて」


 眼前に迫り来る巨大な大地の津波に向き合った。


 神憑りを使って十秒ほどだろうか、身体が限界を訴え始めているのが分かる。

 筋繊維、血管、神経、そういったものをアフロディテで縛り上げ、強制的に人間のリミッターを外す技が神憑りだ。


 当然、そんな状態を維持し続けられる訳もない。

 最初にアフロディテが説明した時の予想限界時間は四十五秒、それを超えれば俺の肉体は内部から破壊されてしまうらしい。


「――なら、速攻で決めないとな」


 俺は軋む両脚に力を込め、思いっきり地面を蹴る。

 瞬間、視界は大きく引き伸ばされ、世界を構築する全てを過去に置き去ってしまったような感覚になった。


 全てはスローモーションとなり、周囲を舞う土煙の粒一つですら鮮明に知覚できる。

 ほら、あっという間に大地の津波の元まで来てしまった。


「ふっ!」


 思いっきり拳を叩きつければ、冗談みたいな大穴が空いて、大小様々な破片が空中に飛び散った。

 デメテルは信じられないという表情を浮かべている。


「――分かるよ」


 俺はそう呟いて、呼吸する間も無いまま再び地面を蹴ってデメテルの元へと距離を詰めた。


「やめっ!」


 驚愕の表情を浮かべたデメテルは即座に笏を振るおうとするが、俺はその笏を左脚で蹴り飛ばし、そのまま身体を捻じって右手をデメテルの胸に目掛けて突き出す。


「さようなら、豊穣の女神」


 その言葉と共に、デメテルの胸を俺の右腕が貫いた。


「がふっ……」


 口から血を吐き出し、俺の右腕には鮮血が伝ってくる。

 それを知覚した瞬間、耐えがたい激痛と共に膝から崩れ落ちてしまう。


「く……そ……時間、か」


 四十五秒。

 それは悠久のように思えて一瞬だった。


 感じていた万能感が、頭の先からつま先にかけて抜け落ちていく感覚、それと同時にどうしようもない脱力感と疲労感、次いで襲ってくる先ほど感じたものとは比較にならない激痛に、俺はとうとう膝で身体を支えることも出来なくなり地面に倒れ込む。


「よくやった」


 今まさに激突すると思った瞬間、ぽすっと何かが俺の身体を受け止める。

 目の血管が斬れたのか、朱色に染まった視界には、それでも尚美しいアフロディテが微笑みを浮かべていた。


「あ……あぁ」


 ズルリ、とデメテルの胸に刺さっていた右腕が抜け、自分の力では動かすことも出来ずにだらりと下がる。


「アユハ!」


 ドロシーの声が背を打ち、こっちに駆け寄ってくるのが分かった。


「アユハ……キミは、本当に……!」


 アフロディテとは反対に来て、俺の身体を支えるドロシーはパールのような大粒の涙を浮かばせている。


「勝った、ぞ」


「ああ、本当に、本当にキミは大した男だよ」


 俺の言葉にドロシーはうんうんと頷いている、その動きに合わせて涙がポロリと落ちた。


「……まさか、私がやられちゃうなんて」


 そんなデメテルの言葉に誘われ、彼女の方を見れば、どこか清々しいような、それでいて諦めたような表情で自分の胸に空いた穴に手を添えている。


「アフロディテ、神憑りを使ったのね」


「あぁ」


「その覚悟は、あるのね」


「あぁ」


 デメテルの問いかけに、俺を支えたままのアフロディテが短く返す。


「……そう、いつだって人間は、私たち神の予想を超えてくるものね」


 そう言ってどこか懐かしそうに目を細め、微笑むデメテルの胸からは、今もドクドクと鮮血が流れ続けていた。


「貴方、名前はなんだったかしら」


「アユハ……阿由葉祐樹だ」


「そう、アユハ。貴方は私たちの領域に踏み込んできた、その重さはこれから身をもって知ることになるでしょう、運命は流転し――そして収束する」


 ふとデメテルの右手が慈しむように俺の左頬を撫でた。


「もう貴方はその運命から逃げられない」


 まるで呪いのような言葉、しかしその表情はどこまでも慈愛に溢れている。


「……お、おれは、変わらねぇ」


「そう、そういう所が――」


 ふふっと笑うデメテル、その瞳からは徐々に光が失われていく。


「ああ、人の時代に生きる子ども達……どうかあなた達に、神の祝福を――」


 震える声でそう告げたデメテルは、俺の左頬を撫でていた腕をだらんと落とし、そして二度とその口を開くことは無かった。


「あ゛ぁ、くっそ……クソ痛てぇ」


 星海の空を眺めながら、俺はその背を戦いの跡が残る大地に預けた。


「まぁ、死なんとは思っておったが、反動も思ったより酷くないな。僥倖じゃ」


 どこか満足そうにそう告げるアフロディテは、俺の髪をさらりと撫でる。


「マジ……? かよ」


 これで酷くないだと? 俺はその言葉だけで目が回りそうになる。

 四肢はもげるのでは無いかという程激痛が走り続けているし、血管が切れて体中のあちこちから出血している。


 顔の穴という穴からも血が滴っているし、何より視界が赤すぎて見にくい。

 瞬きするだけで激痛が走るのは流石に異常だろう。


「アフロディテ、アユハはいつ頃治る……というか、元に戻るのですか?」


 ナイス、俺が怖すぎて聞けなかったことを平然と聞いてくれる、そこに痺れるし憧れちまうよドロシーさん……。


「ふむ」


 ドロシーの言葉にアフロディテは思案するような表情を見せる。

 おいやめろ、そういうのが一番精神衛生上悪いんだぞ。


「まぁ、三日もすれば大分元に戻るじゃろ。全快であれば一週間ほどかのう」


 早くて三日――。


「ま、ずい、な……」


「おい無理してしゃべ――」


 心配するようなドロシーの言葉を遮って、俺は続ける。


「帝、国の……工、作員が……」


 そこまで言って、ドロシーはハッとした表情に戻った。

 そう、この空間を出ればきっと奴らが待ち受けている筈――そんな事を考えていた刹那。


 シュワシュワと、まるで炭酸が抜けていくかの如く、世界の端が光の粒子となって消えていくのか視界に映った。


 あれ? これなんかヤバくね?


 ★★★


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