第17話 ジャックの献身


 土曜日の朝、早めに朝食を済ませたケントとエリは、セミフォーマルのスーツとワンピースに着替えて待ち合わせの時間までを部屋で過ごした。

テレビでは地元のニュース番組が流れているが、2人とも内容は頭に入っていない。

部屋に備え付けのコーヒーを飲みながら、ケントは窓の外を眺めている。


「何考えてるの?」


 エリに声をかけられて、ケントはゆっくりと頭をエリのほうに向けた。


「考えてるようで、何も考えてない」


「そうよね。私もそうだわ」


「最後に言っておくけど、もし危険だと判断したらなりふり構わず命を守る方法をとるから、そのときは従ってほしい」


「うん、わかってる。なんか緊張しちゃうね」


 エリはあえておどけた調子で言った。

そんな妻のおかげでケントの表情は少し緩んだ。


「緊張することはないよ。ここまできたら楽しんでみせるさ」


 待ち合わせ時間の30分前にロビーに降りて、フロント業務中のアレックスに挨拶をしてからロビー全体が見回せるカフェに席を取った。

しかし、約束の時間を過ぎてもジャックらしき人物は現れなかった。

待ち合わせの時間が15分を過ぎ、ケントが帰ろうか、と言いかけたところで、エレベーターから降りてきた人物が慌てた様子でロビーの中央に立ちプラカードを胸の前で掲げた。

その男性は黒のスーツを来ていて、走って乱れた髪を手櫛で整えながら周りをきょろきょろと見回していた。


「ジャックじゃない? ここからは文字が見えないけどプラカード持ってるし」


「そうだな、行こうか」


 ケントとエリは立ち上がってジャックと思しき人物に近付いた。

掲げているプラカードにはやはりRDの文字がある。


 ジャックは近付いてくる20代のカップルに気付いたが、自分と関係ないと思って視線を外した。

しかし、カップルは確かな目的を持って自分に近付いていると確信したとき、明らかに動揺の表情を見せた。


「Are you Mr.Jack? (ジャックさんですか?)」


 ケントが話しかけると、ジャックは慌ててタブレットを開き、もう一度言ってくれというジェスチャーを見せた。

ケントがタブレットに向かって話しかけると、同時通訳のようにスペイン語で表示されて、今度はジャックがタブレットに話しかけた。


——RDのお友達ですか?


 画面上に表示された文字を読んで、ケントは「Yes」と答えた。

その返事は理解したようで、ジャックは再びタブレットの同時通訳を使った。


——申し訳ないが、証拠を見せていただけますか。


 ケントは持参したラップトップであらかじめログインしていた戦車のゲームを見せて、自分のIDとアランとのやり取りがあるチャット画面を見せた。

その証拠はジャックの信用を得るに充分だったようだが、内心はまだ混乱しているようにみえた。


——同行者は妹だと伺っていたのですが。


 ケントはタブレットに向かって自分の状況を説明した。

自分が正真正銘の友人であること、妹と言ったのは妻であること、年齢について驚かれたかもしれないが聞かれなかったので言わなかったこと、そしてホテルの従業員であるアレックスという人物が同行すること。

アレックスは3人が対面したのを確認して、いつの間にかケントの後ろに立っていた。


——アランに電話してもいいでしょうか?


 ジャックが二つ折りの携帯電話を取り出したので、ケントは手のひらを上に向けて、どうぞ、というジェスチャーをした。


「お前が高校生だと思っていたらしいぞ。アランさん、彼は20代のようです。さらに、妹だと言っていた人は妻でおそらく同じく20代です。どうしましょうか、だってよ」


 アレックスがケントにだけ聞こえるように耳元で話しかけた。


「スペイン語わかるのか?」


「ホテルマンの嗜み程度にはな。今回においてはわからない振りをしておくほうが得策だと思ったから言ってなかった」


 アレックスの思惑を汲み取って、ケントは軽く頷いた。

もし、相手がよからぬことを企んでいるのなら、相手の言語が全く分からない振りをしておけば堂々と目の前で作戦会議でも始めるかもしれない。

そのとき、きょとんとした顔をしながら会話の内容を掴めればこちらの有利になることは間違いない。

ケントは頭の切れる友人に脱帽すると同時により一層心強く思えた。


——お待たせしました。リカルドの待つ部屋に来ていただけますか?


 短い電話を終えて、ジャックは改めて襟を正してケントとエリに向かい合った。


 ケントがちらりとアレックスを見ると、問題ない、というようにアレックスは片目を瞑ってみせた。

そして今まで一部始終を黙って見守っていたアレックスがジャックの前に一歩踏み出し、タブレットを使うように指でさし、そのマイク部分に向かって話しかけた。


「今回スイートルームをご利用くださいまして誠にありがとうございます。ついては、当ホテルよりフルーツ盛り合わせのギフトがございますので、一緒にお持ちしても構わないでしょうか?」


 ジャックは翻訳された文面を読んで、相好を崩した。

その表情は思いがけないギフトを心から喜んでいるようで、緊張の解けた本当の笑顔はあどけなさの残る少年のようだった。

エリはその笑顔をみて、すっかり防御の盾を外してしまったようにみえた。


 エレベーターホールでフルーツのワゴンを待っていると、ジャックがちらちらとケントの様子を窺っていた。

首をかしげて、なにか?というアイコンタクトを取ると、ジャックはタブレットに向かって長々と話し、翻訳された画面をケントに差し出した。


——前もって言っておくべきだと思うのですが、アランは正直見た目がとてもいかついです。私は彼の部下ですが、最初は怯えました。だけど、彼の中身はとても誠実で見た目とは正反対です。なので、会った瞬間は驚かれるかもしれませんが、誤解しないようにお願いしたいです。


 ケントは文章を読んで、思わず吹き出しそうになった。


「あなたは正直者ですね」


 翻訳されたスペイン語を読んで、ジャックは気まずそうな表情を見せた。


——本当のことだからです。


 今度こそ、ケントは声に出して笑い声をあげた。

横から覗いていたアレックスとエリも笑って、エレベーターホールは温かい空気に包まれた。


——あと、リカルドはあなたとの面会を心から望んでいます。リカルドの細い体にも驚かれるかもしれませんが、医師も同行していて当面の体調に問題はないと言われています。彼は子供ですが、中身は僕も手玉に取られるくらい賢い子です。僕は家族ではありませんが、今日来ていただいたことに改めてお礼申し上げます。


 ジャックは話しながら少し涙声になっていた。

もしこれが悪事を働く前章だとしたら、相当腕のある役者ということになる。

ジャックの目の奥に浮かぶ涙を見て、ケントも疑う心のガードを少しばかり緩めた。

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