第7話 リカルドの願い


 リカルドの体調が急変したのは、突然のことだった。


 産まれたときから長い命ではないと宣告されて以来、その日がいつかくることは心のどこかで覚悟している。

しかし、幸いにも今日まで命の危機を感じたことはなかった。

それも一重にリカルドが自分の体を熟知して日々の養生に励んでくれているおかげだ。

今までも発作を起こして数日寝込むことはあったし、苦しそうなリカルドを見るのは辛かったが、リカルドはその度乗り越えて再び笑顔を見せてくれていた。

決して優良健康児ではないが、細くても長く続く命ならそれでいいと思っていた。

もしかしたら、完治できるんじゃないかとまで淡い夢を見ていた。


 そんな幻想を思い描いていた矢先、リカルドが突然、食事中に倒れ、そのままベッドから起き上がれなくなってしまった。

今回の病状は深刻で、安静にしていても医者が薬を増やしても、良くなるどころか悪化していく一方だった。


「父さん、仕事は行かなくていいの?」


 すでに3週間もベッドから起き上がれずに寝たきりの状態で、誰よりもリカルド本人が辛いはずなのに、それでもリカルドは父親の心配をしている。

食事の量も減ってしまって、こころなしか青白く映るリカルドの顔を見つめると、アランの胸はぎゅっと締め付けられた。


「ああ、心配しなくていい。父さんの部下のジャックっていうおじさん、覚えているか? 彼に任せておけば問題ない」


「かっこいいなあ。僕も父さんみたいに仕事してみたかったなあ」


「なに言ってるんだ、リカルドはこれからどんな仕事でも選び放題じゃないか。リカルドは頭もいいんだし、きっと父さんよりも稼ぐ仕事に就けるぞ」


「そうかなあ」


「当たり前じゃないか」


 そうだ、リカルドは賢い。

アランはろくに学校も行かず、勉強なんてしてこなかった。

そんな父親の血を引いているとは思えないほど勉学に長けているし、頭の回転も速い。

そして、なによりも大人顔負けの強い精神を持ち合わせている。

だからこそ自分の病気を理解して、医者も驚くほどの生命力を見せてくれた。


 ただ、この場面に限っては、その頭脳を与えた神を恨んでしまう。

ライザが言うには、最近のリカルドは自分の死期が近付いていることを悟っているというのだ。

誰よりも近くでリカルドを見守ってきた母親が言うのだから間違いないだろう。

こんな幼い子どもが自分の死期を悟っているなんて、そんな残酷な話はない。


「さあ、リカルド、お薬を飲んだのだから、もう寝ないとまた頭痛が出てきちゃうわよ」


「わかったよ、母さん。あっ、父さん、今日は僕が眠りに着くまで側にいてくれないかな」


「もちろんだとも、リカルド」


 ライザは、ベッドから伸びるリカルドの手を強く握る夫の姿に目を細ませながら、静かに部屋のドアを閉めて1階に向かった。


 母親が階段を降りる足音を確かめると、リカルドは眠る準備をしていたはずの目を開いた。


「どうした、眠れないのか」


「あのね、父さん、ぼく、お願いがあるんだ」


 アランは、身を乗り出してリカルドの顔に自分の顔を近付けた。


「なんだ、なんでも言ってみろ」


「でもね、母さんには内緒にしてほしいんだ」


「どうして」


「だって、母さんは寝る間もなくぼくを看病してくれているだろ。ぼくの体調には口煩いくせに、自分の体調管理を怠っているんだ。このままだと、ぼくより先に母さんの方が倒れちゃうよ」


 不満を表すために、わざと膨らせた頬の丸みが愛おしい。

これを見て願いを断れる父親がどこにいるだろうか。


「よし、わかった、母さんには内緒だ」


「ほんとだよ、男の約束」


「ああ、男と男の約束だ」


 父親とリカルドは、硬く小指を絡めあって誓いを立てた。


「ぼく、友達に会いたいんだ」


「なんだ、そんなことか。母さんに秘密にするまでもないだろ。どの友達だ? 父さんが今から迎えに行ってもいいぞ」


「違うんだよ。学校の友達でも近所の友達でもないんだ。父さん、戦車のゲームを覚えてる? あの友達に会いたいんだ」


「戦車の友達?」


「うん、前に父さん見ただろ、戦車のゲームを一緒にプレイしている友達だよ」


「その友達って……」


 アランは数週間前に交わしたリカルドとの会話を記憶の奥から手繰り寄せた。


「確か会ったことないし、顔も見たことないんじゃないのか」


「うん」


「それに、名前もなにも分からないんじゃなかったか」


「うん、わかってるのは彼のゲームIDと、妹がいることぐらい」


「北米に住んでるって言ってなかったか」


「ぼくの推測だけどね」


「連絡はどうやって取るんだ」


「ゲームのチャットしか方法はないんだけど」


「そんな……。そんな友達にどうやって会えるんだ」


 リカルドの望みは何でも叶えてやると意気込んでいただけに、アランの出鼻は大きく挫かれた。

予想をはるかに超えた頼みに、アランの思考は停止した。


 ゲームで築く友人関係があることだって最近ようやく知ったのに、名前も住所も知らない人に会うなんてどうすればいいかわからない。


「だから、父さんに頼んでるんだよ。お願いだよ。難しいってことはわかってる。ぼくも諦めようと何度も思ったよ。でも、どうしても諦めきれないんだ」


「近所の友達じゃだめなのか。学校の友達だと、今すぐにでも会えるんだぞ」


 卑怯な提案だとわかっている。

リカルドの望みはそんなことじゃない。


「……そうだよね。僕にはすぐに会える友達がたくさんいるんだ。ごめん、父さん、変なことを言って。さっき言ったことは忘れて。ばかだよね。父さんだって忙しいのに、ぼくはなにを言ってるんだろう。あーあ、早く元気になってゲームしたいなあ」


「そうだ、そのためにはもう寝なさい。リカルドが寝なかったら、母さんに怒られるのは父さんなんだぞ」


「ははは、そうだね、ごめんなさい。明日はきっと、ダイニングで母さんと父さんと一緒に朝食を食べるよ」


 アランが立ち上がってリカルドの頬にキスをすると、リカルドはくすぐったそうにそれを受け止めて、すぐに眠りに落ちた。

父親が家にいてくれることが嬉しくて、体力の限界まで起きていたのだろう。

口元に頬笑みを残したまま眠るリカルドの顔が愛おしくて、もう一度頬に長いキスをし、ブランケットを肩まで掛けると、足音を消して部屋を後にした。


 リビングでは妻が待っている。

家にいる時間はほとんどリカルドに費やしている分、妻と会話する時間が減ってしまっている。

仕事とはいえ、留守がちな夫に不満ひとつ言わず気丈に頑張ってくれているライザだが、話し合いたいことは山ほどあるはずだ。


 急いでリビングに向かうアランの足に急ブレーキをかけたのは、ある思いつきだった。

足音を消したまま爪先を反対に向けて書斎に入り、ドアがきちんと閉まっているのを確認してから、電話を手にした。


「ああ、ジャック、今日の仕事はどうだった? ……そうか、ご苦労だった、ありがとう。つかぬことを聞くが、確かきみもよくゲームをしているよな。ああ、いや、私じゃない、リカルドのことで頼みがあるんだ」

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