第5話 ケントの事情


 ケントがスーツを脱いで部屋着に着替えてから夕食の食卓につくと、妻の席の前に置いてある錠剤に気が付いた。

食後の薬を忘れないようにするための彼女の習慣だ。


「今日、病院どうだった?」


 台所で夕食の仕上げをしているエリの背中に訊ねた。


 いい結果であったのなら、夫の帰宅と同時に喜色満面の笑みで話しかけてきていたに違いない。

それがなかったということは答えはすでにわかっているが、ケントは努めて明るい声を出した。


「やっぱり今月も経過観察だって。先月受けた血液検査の結果の一部が少し基準より超えているところがあるから、薬でまずは基準値まで戻して、それからどうするか考えましょう、って」


 無機質な診察室で医者から話を聞いているときの妻の心情を思うと、胸が痛んだ。


「そうか、お疲れさま。その薬に副作用はないの?」


「うん、特に注意されなかったわ」


「そうか、今月は残念だったけど、まだ終わりじゃない。その薬が効けば、いい効果が出るってことだろう」


「そうかな、だといいけど……」


 エリの声が語尾にかけて徐々に小さくなっていく。

ケントは、対抗するように朗らかな声を出した。


「来週は結婚5周年のレストランも予約してあるんだ。悪いことばかりじゃない。ほら、笑って」


「……ありがとう」


「こちらこそ、辛い病院通いがんばってくれてありがとう」


 能面のようだった妻の顔に、ようやく一筋の笑みが射した。


* *


 子供が好きだった2人は結婚後すぐに妊娠を希望していたし、周りの友人たちと同様に自分たちもすぐに子供ができると信じて疑わなかった。


 しかし、何事もないまま1年が経過したころ、エリが病院に行きたいと言い出した。

まだ焦る必要ないと思っていたケントだったが、妻の思いつめた表情を見て、一緒に病院に行く決心をした。

きっと考えすぎていい結果に繋がらなかっただけだろう。

病院で何もないと診断されれば、妻の気持ちも晴れるに違いない。

そう思っていたケントに下された結果は残酷なものだった。


 夫側には特に問題は見当たらない。

しかし、妻に所見が見られる。

できれば手術で取り除いたほうが今後の結果に繋がるが、医者の言い分では手術は考えられる要因を1つ消すだけに過ぎず、今のままでも妊娠の可能性はゼロではないらしい。


 ケントは、子どもを望んでいた。

だが、それ以上に妻のことが大事だ。

まだ見ぬ子どものことよりも、少ない可能性の為だけに妻が手術を受けることに強い抵抗を感じた。


 手術を受けなくてもいいだろうと及び腰の夫に足して、少しでも可能性が上がるのなら手術を受けたいと、エリの決意は固かった。

彼女の体のことは、彼女にしかわからない。

医者の診断に対して、彼女なりになにか思うところがあったのかもしれない。


 手術は、無事に成功した。

手術までの2カ月の待期期間と手術後の4カ月の養生期間は果てしなく長く感じられたが、医者からの太鼓判もあり、これでなにも問題はないのだから結果はすぐに出ると思っていた。

しかし、2人の意気込みとは対照的に、さらに半年経過してもエリの体に変化は見られなかった。


 医者の勧めにより、ステップアップもした。

それらの結果も芳しいものではなく、その経過でエリは2度の流産を経験した。


 医者曰く、流産という事実は残念だが、後遺症については心配無用とのことだった。

自分たちで調べてみると、器官の一部を切除したり、最悪の場合だと命を落とす流産もあるらしい。

エリの場合は、2日ほどベッドから動けないほどの痛みに襲われたが、手術の必要はなかった。


 流産によって身体への影響はなかったが、しかし、心の痛みは例えようもなく大きかった。

特に2度目のときは、なにかを思い詰めているような表情の妻を1人残して仕事に行かなければならないことが、ケントには不安でたまらなかった。


 現代の医学では、ケントとエリの原因を突き止めることは不可能らしい。

いろいろな検査を重ねたあげく、2人に下された診断結果は原因不明となり、その場合、つまり妻の体に異常があるということになる。


 原因不明と医者に告げられた日の帰り道、ケントはろくに前を見て運転できなかった。

助手席に座るエリの生気が完全に失われてしまい、家に着いてからも、泣きもせず、ただベッドに横たわる彼女の背中をさすることしかできなかった。

なんて声を掛ければ正解なのか。

彼女が、誰よりも子供を望んでいることを知っている。

それに、子供と公園で遊ぶことが夢だと言った夫の夢を叶えてあげたいと言ってくれた。

全身麻酔の手術という大きな山を越え、日々の辛い治療もがんばってくれた。

言いたいことは山ほどあったけど、どれを口にするべきかわからない。

せめて、大声で泣いてくれたら、万の言葉を使って慰められるのに。


「エリ、おれと結婚してくれてありがとう」


 かろうじて口から出た言葉を引き金に、ようやくエリはベッドの上で背中を丸めて大粒の涙を流しだした。


 あの日以降、状況は日進月歩の如く、良くも悪くもない日々が続いている。


 医者は決して諦めの姿勢をみせない。

それは理解できる。

なぜなら、カルテ上のエリはどこにも問題がないからだ。


 解決策の見えない日々の闘いに、最初に迷い出したのはケントだった。

そもそも妊娠自体が奇跡に近しいものであって、それから出産に至るまでどれほどの人が涙を呑んできたか数知れない。


正常妊娠の場合だって、流産になってしまう可能性がゼロではない。

エリの場合も、運悪くたまたまそれが2回続いただけかもしれない。

医者の論理上ではそうなのだろうが、当事者は、はいそうですか、と素直に納得できるものでもない。


 幕引きの時期は自分たちで決めなければならないことに気付き始めていた。

それが、今までの数ある選択肢の中で1番きつい選択であることはわかっている。


 言葉を選びながら今後の方針について話し合いをしている中で、夫の意見に同意を示していたエリが顔をあげてはっきりと否定の異を唱えたのは、ケントの些細な一言だった。


「妊娠だけがすべてじゃないよ」


「それは違うわ。私は妊娠をゴールだと思っていない。

その後に出産まで続くおよそ1年間だって新たな不安がたくさん出てくるだろうし、無事に生まれたとしても不安が尽きることはないでしょう。

私の当面のゴールは、子どもが20歳を迎えて保護者の手を離れるときよ」


「……そんなつもりで言ったんじゃないよ」


「ごめんなさい、そうね、わかってるわ。

あなたがちゃんと一緒に考えてくれていることはわかっているのに、どうしたのかしら」


「いや、ごめん、おれが謝るべきだ。エリのように視野を広く考えていなかった。悪かった」


 エリの落ち込む顔を見ながら、ケントは心の動揺を悟られまいと平静を装うのに苦労した。

彼女の言うとおりだった。

妊娠するということは、1人の人間をこの世に生み出すことで、両親には保護者としての責任が発生するということだ。


 それにしても、まだ子どももいないのに、エリにはもう母性が備わっている気がする。

そうか、たった数週間ではあったが、エリの胎内には2つの生命が宿りかけていたのだ。


 改めて、彼女の強い覚悟に驚嘆し、彼女が自分の妻であることに感謝した。

同時に、1人の女性として、また母親として、新たな魅力を感じた。


 妻の強い意志の前で、弱音を吐いた自分を情けなく思った。

彼女の体の為と言いつつ、本当は妻の落ち込む姿を見るのが辛い日々から逃げ出したかっただけだった。

お互いがもう駄目だと思うところまで頑張ろうと結論を出してから、夫婦としての絆が一層深まった気がした。


 こうして紆余曲折ある中で一喜一憂の差が激しかった妻の心情も、今では多少の変化に慣れたようで、以前のようにひどく落ち込むことも少なくなった。

だが、それは表面だけであって、彼女の心の奥の辛さがなくなったわけではないことを肝に銘じている。

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