第23話 保健室で二人っきり


「……あれ、痛くねぇ?」


 栗原は殴られたとは思えない涼しい顔で立っていた。

 それもそうだ。人を一度も殴ったことがない雨宮のパンチ力は、子供より弱いのだ。


 だが、それでも雨宮は引かない。

 不慣れなファイティングポーズで栗原を迎え撃つ。


「雑魚がイキってんじゃねぇよ!」


 しかし、つい最近走り込みを始めたばかりの雨宮と、中学から野球部だった栗原との間には圧倒的な差があった。

 運動神経が違いすぎるのだ。


 ドコッ! 顔面を殴られ、頭を揺らす雨宮。

 拳を振り絞る栗原の姿が見え、防ぐ動作をとろうとしたが、それよりも先に拳が頬に直撃してしまう。


「……まだだ」


 倒れてもおかしくないダメージを受けて尚、雨宮は踏ん張った。


 膝から流れていた血は止まったが、捻った足首が痛む。すごく痛い。

 殴られた顔もじんじんと痛んで、このまま倒れたらどれだけ楽だろうか。


 それでも、何故か身体は、栗原に立ち向かえと言っているような気がした。

 負けてはならないと、そう叫んでいた。


「あああああああああああ!!」


 殴り合いでは勝てない、ならばと雨宮は栗原に突進した。


 ぶつかった瞬間に逃げられないよう腰に手を回して、栗原のバランスを崩す。

 後ろに押し倒された栗原は、保健室の備品戸棚に叩きつけられる。


「がっ、この野郎!」


 栗原は、雨宮の顔面を二度殴りつける。

 手加減なしの本気でだ。


 それでも、栗原の身体に回した雨宮の腕は緩まなかった。


「何の意味があんだよソレ! どーせ俺に勝てねぇんだ! さっさと離しやがれ!」


「嫌だ……絶対に離すもんか。お前が負けを認めるまで……絶対にっ」


「死ねやクソが! 死ね死ね! 死ね!」


 十発は殴られただろうか、瞼を開けるのもやっとのはずだ。


 だというのに、絶対に逃さまいと捕食者のような眼光で睨みつけてくる雨宮に、栗原は段々と恐怖心を覚える。


「さっさと諦めよ。テメェなんかが付き合えるはずがねぇのに、痛い思いをしてまで……なんで、まだ掴んでんだよ!?」


「楽して諦めて、これから惨めに過ごせって言っているのか。そんなの、俺は嫌だ……」


 途切れそうな声で、雨宮は答える。

 荒々しい呼吸を何度も繰り返しながら、栗原を見上げた。

 ボロボロで倒れそうなのに、瞳だけは本気だった。


「失敗を学ばないで……好かれようと努力せず……諦めて立ち止まったままの……お前のようにだけは、俺は絶対になりたくない」


「誰が……」


「栗原くんは……俺なんかよりも人気者だしカッコいいし、周りの人からしたら俺なんかよりカリーナに相応しいかもしれない……けど、俺の方がカリーナのことが……カリーナのことが……好きだ」


 はっきりと言った。

 この想いだけは、負けたくなかったからだ。


「彼女に相応しい男になる為なら、どんなに苦しくても、痛くても。俺は絶対に立ち止まったりしない。変わるんだ、変わって……いつか……」


 栗原は、雨宮がここまで本気だったとは思っていなかったのか、呆気に取られていた。


「カリーナと肩を並べられるように…………」


 視界が歪んで、舌が回らなくなってきた。

 体の至る所が痛い。


「俺は……」


 最後まで言い切ることが出来ず、その場に倒れ込んでしまう。

 栗原の困惑した表情を最後に、雨宮は意識を手放した。






「よっ、雨宮。大丈夫かぁ?」


 目を覚ますと、保健室のベッドだった。

 ベッドの横に座っていたのは見覚えのある金髪、熊谷だった。


 心配そうに、というより何を考えているのか分からない神妙な表情をしている。


「熊谷くん、俺は……」


「おいおい、無理に起き上がるなって。あれからまだ1時間しか経ってない」


 起き上がろうとした雨宮を、熊谷は制しながらスマホの画面を見せる。

 時間は12:20、まだ昼頃だった。


「しっかし派手に殴られたな〜。ま、歯も折れてねーし軽い痣で済んで良かったじゃん」


「……栗原くんは?」


 熊谷のテンションには付いていけず、雨宮は暗い声で尋ねた。

 軽傷だと言っても、顔が痛い、鼻血もさっき出ていた。


「俺が助けを呼んだ先生たちに押さえつけられて、生徒指導室に連れて行かれたよ」


「え、熊谷くんが呼んだの?」


 熊谷はニコリと笑って、スマホの画面を見せる。

 保健室で栗原に暴力を振るわれている雨宮の姿が動画が流れていた。


「え、撮っていたの!?」


「まあね、栗原のやつとは長い付き合いでね。なんか、やらかしそーだなって勘が騒いでいたから、こっそり付いたら暴力事件よ」


「最初っから撮ってたなら……助けてよ」


「それはスマン。けど、あそこで俺が助けに入っても、その場しのぎでしかならなくなるだろ? だったら、決定的な瞬間をカメラに収めて証拠にしたほうが、栗原の嫌がらせをこれっきりに出来るんじゃないかって思ってさ」


「むっ、確かに……」


 熊谷は、やはり合理的な男だ。

 学校側を信用してないわけではない。

 だが、しっかりとした証拠がないと栗原の処分が軽くなったり、言い逃れされる可能性があった。


「で、でも俺が殴った場面も……」


「そんなの編集すれば、なんとでもなるしょ。ま、先生たちにもう動画を送ったんだけどさ」


「そっか……色々と、ありがとう」


 熊谷には遅めに助けられたが、殴られた甲斐があったと雨宮は納得することにした。

 このあと病院に行くことになるかもしれないけど。


「しっかし栗原のやつ、馬鹿だよなー。野球部のくせに、暴力事件を起こしちゃうなんて。野球連盟? て言うところに報告されて、連帯責任でチームの大会出場辞退になるか、軽くてもチームから外されるかだな。それと学校側からも処分を下されるだろうなー」


「それは栗原くん……ご愁傷さまとしか」


「ま、百パーの自業自得だな。あいつの親父、野球に厳しい人らしいから学校での処分より家庭でどうなるか、そっちの方があいつにとって怖いことかもしれないな」


 友達なのに、熊谷はどこか他人事だ。

 上辺の付き合いだった、というやつかもしれない。

 しかし、雨宮はあえて触れないことにした。


「そんじゃ、報告はこれで以上。あんま長居すると戻ってきた先生に叱られそうだから、そろそろ教室に戻るよ。ジュースを買ってから」


 熊谷といったら缶ジュースというイメージがある。

 学校に会うたびに、いつも何か飲んでいるからだ。


「うん、それじゃ」


 立ち上がった熊谷に、雨宮は感謝を告げる。

 彼には助けられてばかりだ。


「あ、そういえば」


 熊谷は思い出したかのように立ち止まり、笑顔で振り返った。


「弱いくせに、よく立ち向かったな。カッコよかったぜ」


 そう言って彼は手を振り、保健室から出ていく。

 熊谷に惚れる女子たちの気持ちを、なんだか理解できるような気がして雨宮は悔しくなった。

 相変わらず、良いやつだ。



「あっ……ああ……」


 保健室から出ていった熊谷が、気まずそうな声を上げたのが聞こえ、雨宮はベッドを囲むカーテンを開けて様子を確認する。


 保健室の外、廊下で熊谷が誰かと小声で喋っていた。

 ところが会話がすぐに終わったのか、熊谷は逃げるようにして教室に戻っていった。


 意味がわからず雨宮は首をかしげるが、安静にしていないといけないのでベッドに横になる。


 しかし、誰かが自分のベッドに近づいてくるのが聞こえ、足音のする方に視線を向けると、その人物と目が合ってしまう。


「あっ……」


 なぜ、熊谷が慌てて逃げたのか雨宮は理解した。

 そこに立っていたのが、雨宮のよく知る人物だったからだ。


「孝明くん……ぐすっ……」


 カリーナが泣いていた。

 心から心配してくれているのか、今までにないぐらい悲しい表情だった。


 それを目にした雨宮は、胸が痛くなる。


「孝明くんっ、孝明くんっ、たかあき……くんっ……」


 カリーナはポロポロと涙を零しながら、ぎゅっと雨宮の手を握りしめた。


「良かった……良かったよっ……」


「カリーナ……」


 自分のために泣いてくれるカリーナが、愛おしかった。

 わざわざ保健室まで駆けつけて、傷ついた友達をここまで心配するなんて、やはり優しい子だ。

 好きだ。


『———カリーナのことが……好きだ!』


 なぜか栗原との喧嘩で、とんでもない発言をしたことを思い出した雨宮は、顔を赤くした。

 どうせなら本人に告げたかった言葉なのに、と今さら後悔する。

 いつも通り、情けない雨宮孝明だった。



「あのね、孝明くん……」


 沈黙を断ち切るようにカリーナは小さな声で言い、恥ずかしそうに雨宮の顔を見つめながら、ベッドに座り込んだ。


 彼女の距離感がおかしいのは毎回のことだが、今回だけいつもとは様子が違っていた。


「わ、私ね……」


 唇が重なりそうな距離まで顔を近づけてきたカリーナに、緊張で心臓の鼓動が速くなっていくのを雨宮は感じた。


 それでも止まらない。

 カリーナは唇を耳元まで近づけ、二人っきりの空間であるにも関わらず、誰にも聞かれないよう、小さく告げた。


「……好き———」

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