第22話 先に好きだったのに


 一日が終わり、雨宮は洗面所の鏡の前で、化粧水と乳液を使って顔を保湿していた。


 熊谷曰く、男性の肌は女性より乾燥しやすいため、洗顔をしたあとに保湿しないと肌荒れやニキビの原因になるらしい。


 今まで保湿という保湿をしてこなかった雨宮の顔には、至る所にニキビができていた。

 髭も剃り残しがあって、ちょっと汚い。


『女子は清潔感のある男が好きだ。もしも、お前に彼女ができてキスすることになったとしよう。いいムードになって、お互い顔を近づけ、唇を重ねようとした……その時! 彼女はこう言うんだ! 不潔!ってな。そうならないために俺のおすすめブランドを教えてやろう。これから毎日欠かさずやること。サボった日にはゴール代わりにするからな!』


 これもカリーナに相応しい男になるためだ。


 鏡の前で、綺麗な肌になって生まれ変わった自分を想像して、雨宮はニヤける。


 それを通りかかった杏奈に目撃されてしまい「気持ち悪いからっ」と注意されてしまう。

 保湿もいいが、表情筋も鍛えねば。



 次の日の朝。

 鏡には、雨宮の疲れ切ってカサカサしている顔が映っていた。


 やはり数日続けただけでは肌に変化が起きるはずがなく、溜息を吐いて落ち込む。

 もっと早めに就寝、水分補給をするとしよう。


 



「あれ、孝明くん。お肌、なんかいつもより綺麗になったような……」


 後ろの席から声をかけられ、振り返ると目をジトとしているカリーナがこちらを見つめていた。

 やはり、いつも通り顔が近い。


「そ、そうかな?」


「いや、待てよ。私の気のせいという可能性もあるかもね」


 どっちだよ!と椅子から転げ落ちそうになる。

 なにかと期待させるような発言ばかりするカリーナの天然っぷりに、毎度ながら心臓が持ちそうにない雨宮だったが。


「気のせいじゃないかもしれないから、触ってもいいかな?」


「えっ……触るって……」


 ペタ。

 カリーナはこちらの返答も待たず、確認したくてウズウズした顔で触ってきた。


 不思議なぐらい冷たい彼女の手のひらに驚きながら、雨宮は頬を赤らめてしまう。


「わぁ、スベスベ〜。男の子なのに、いいな〜」


 嬉しそうに言う彼女だが、嬉しいのはこっちの方だった。

 やはりいい匂いがする。


「……それじゃ、次は孝明くんが触ってスベスベか確かめてみて?」


 カリーナは思い付いたかのように、銀色の横髪を耳にかけながら上目遣いでそう言ってきた。


 狙っているのか、それとも無意識なのか。

 いや、でも彼女なら無意識という可能性がある。


(俺が、カリーナの顔に……触る……そんなの許されるはずがっ……はずが……)


 頭で躊躇いながらも身体の方は正直のようで、手が勝手にカリーナの頬に触れようとしていた。


 神ですら触れることを許されないと言われた、雪のように白くて美しい、高嶺の花の肌に、吸い込まれるかのように手が段々と近づいていく。


「……っ」


(えっ……?)


 気のせいか、カリーナの方も顔が赤くなっているような―――



「雨宮くん、永瀬さん。授業中ですよ? 私語は慎んでください」


 あと数センチの距離で、世界史の先生から注意を受けてしまう。

 クラスメイト達からの視線も集まり、恥ずかしくなった雨宮は手を引っ込める。


「あっ……」


 すぐに黒板の方を向いてしまったので、見間違いかもしれない。

 しかし、カリーナが惜しそうな顔をしたような気がして、雨宮は休み時間になるまで授業に一ミリも集中できなかったという。









 体育の時間。

 熊谷と、熊谷の友達と三人四脚リレーをすることになった雨宮。


 野球部で坊主頭の栗原、熊谷と同じくクラスの中心人物で陽キャだが、熊谷との決定的な違いがあった。

 それは、


「おっせーよ雨宮! チンタラしてんじゃねー!」


 口が悪くて、雨宮を見下しているところだ。

 彼も高咲と同じタイプの人間なのか、さっきから妙に噛みついてくる。


 だが、授業なので従うしかなくそれぞれの配置につく陽キャ二人と、陰キャ一人。

 右に熊谷、左に栗原、真ん中に雨宮。


「キャー! 頑張って熊谷くぅん!」

「ふれーふれー熊谷くんっ!」


 女子からの声援に、熊谷は髪をかきあげウィンクで応じる。

 サッカー部のエースという肩書き、高い顔面偏差値、性格の良さ。

 モテないはずがない完璧陽キャの熊谷。


(いいなー女子からの声援。男の夢……)


「イケイケ孝明くんっ! 頑張れ頑張れ孝明くんっ! 勝てーー!」


(か、か、か……)


 熊谷に声援を送っていた女子全員が静まり返り、雨宮を応援するカリーナの声だけが校庭に響き渡る。


 周りが静かになったことに気付いていないのか、カリーナはさらに大きな声で応援を続けた。


 高嶺の花の永瀬カリーナが、雨宮孝明を応援する光景に、クラスメイト全員がUFOを目撃したかのような反応をする。

 それもそうだ、普通はありえないからだ。


「フレーフレー……ふれー……れ」


 周囲が静かになったのに気付いたカリーナの声量が小さくなる。

 いや、もう手遅れだから。


 でも彼女に応援されて嬉しくない男子は、この世に存在しない。

 絶対に勝つ!と高校に入学して初めて雨宮は、体育で闘心を燃やした。

 そんな雨宮の頭を、栗原は強めに引っ叩く。


「痛っ!? 栗原くん! 何を……」


「調子に乗るんじゃねーぞ雨宮ぁ? どーせカリーナは友達との罰ゲームか何かでお前を応援しただけなんだよ。分かったなら、さっさと配置に付けやコラァ」


「……は、はい」


 ハードな野球部の練習をこなしているだけあって栗原は体格が良い。

 加えて顔が怖いし、喧嘩したら間違いなく勝てないので雨宮は大人しく従うことにした。


「まあまあ、弱いものイジメはその辺にして、栗原もさっさと準備しろよ」


「あ?」


 そんな彼を挑発する熊谷。

 栗原相手に、まったく怖がっていないのは流石というべきか。


(でも……二人って友達同士のはずだよね……?)


 苛ついた顔の栗原と、爽やかに笑う熊谷の間でバチバチと火花が散っている。

 その間で縮こまって震える雨宮。

 本当に二人は友達なのだろうか?


「では、位置についてー、よーい」


 先生の合図で他のチームが肩を組んで走る姿勢に入っていたが、雨宮チームはというと。


「絶対に負けねぇからな熊谷ぃ」

「その台詞、そっくり返すよ」


 足首を結び合わせているのに、スタートラインでしゃがむ熊谷と栗原。

 雨宮は嫌な予感がして、同じくしゃがもうとした瞬間。


「ドンッ!」


「うわああああああああっ!?」


 スタートの合図で走り出す体育会系男子二名と、引きずられるひ弱な男子一名。

 三人四脚とは、三人で協力して走るものなのだが、これでは個人戦だ。

 

「キャー! 熊谷くーん!」

「頑張れ栗原ー!」

「孝明くーーーん!!」


 女子組に応援される熊谷、男子組に応援される栗原、カリーナに心配される雨宮。


 それを見ていた体育の先生が慌てて止めに入り、雨宮はなんとか一命を取り留めるのだった。





「痛てて……」


「うわ、雨宮平気かよ? 血出てんじゃん」


 引きずられた時に擦りむいたのか雨宮の膝から血が出ていた。

 それを熊谷は他人事かのように聞いてきたので、ツッコもうとした雨宮だったが、足首も痛くて思わず手を当ててしまう。


「捻ったかも」


「まじかよ、なんか……スマンな雨宮」


「いや、それ謝ってるつもり?」


 手を合わせて軽く謝罪をする熊谷に、雨宮は軽めのツッコミを入れる。

 捻挫した原因のくせに能天気な奴だ。


「なら、保健室だな。誰か雨宮に肩をかしてくれないか?」


 と先生がクラスメイト達に呼びかけるが、カリーナだけしかピンっと手を挙げてくれなかった。陰キャのために手を貸したくないらしい。


「先生! 私行きますっ!」


「おう、なら永瀬に……」


「あのー女子じゃ保健室まで肩を貸すの大変だと思うんで、俺が行くッスよ」


 カリーナに頼もうとした先生に、まさかの栗原が代わりに行くことを提案してしまう。

 熊谷は口笛を吹いて、こっそり何処かに行こうとしている。


 初めて熊谷を殴りたいという衝動に駆られながら、栗原だけは絶対に嫌だと内心で祈る雨宮。


「おう、じゃ栗原。雨宮を頼んだぞ」


(うそぉぉぉぉぉおおおお)


「ええーーーー!!」


 栗原に役目を奪われたカリーナは、校庭中に嘆声を響かせた。

 「カリーナさんって、こんな大きな声を出せるんだ」と新たな発見に、盛り上がるクラスメイト達だった。





 保健室。

 運が悪いことに誰もおらず、雨宮は唾を飲んだ。

 敵対心剥き出しで突っかかってくる栗原と二人っきりの状況になるからだ。


 とりあえず擦り傷を水で洗ってから消毒して、捻挫した足首用の氷を作れば。

 そんなことを考えていた雨宮は、気づけば床に倒れていた。


「栗原くん……?」


 ここまで肩を貸してくれた栗原に、押し倒されたからだ。

 怖い顔でこちらを見下ろしていた。


「陰キャのくせに、最近カリーナと仲よさ気じゃねぇか雨宮ぁ? おい?」


 関節を鳴らしながら近づいてくる栗原に、雨宮は這いずって逃げようとしたが、余裕で首根っこを掴まれてしまう。


「おい、逃げんじゃねぇよクソが。俺の手を煩わせんじゃねぇよ……生意気だな」


 ペシっと頬を叩かれてしまう。

 豆だらけの手だったが、あまりの痛さに顔をしかめる。


「何? 泣きそう? 泣くなら泣けよ弱虫野郎が。言っとくけど、これだけで終わらせる気ねぇから。テメェみたいな奴は、痛めつけて理解させるのが一番手っ取り早いんだよ。だから、もう一発」


 ベシッ、とさっきより強烈な平手打ちをされ、鼻からツーっと血が出てきた。

 雨宮は意味がわからず抵抗しようとするが、鍛え抜かれた栗原に敵うはずがなく床に叩きつけられてしまう。


「なんで俺じゃなくて、テメェみたいな価値のねぇ負け犬に……何の役にも立たねぇゴミクズ野郎に、振り向くんだよ! こっちは初恋だったんだぞ!? なのに、なんで俺に……俺にあの笑顔を見せてくれねぇんだよ! 俺のほうが、先に好きだったのによ!」


 栗原の平手打ちを何度も受けながら、数ヶ月前に彼がカリーナに告白してフラられたという噂を、雨宮は思い出した。


(そうか……そういうことか……!)


 友達でもなんでもない捻挫した雨宮を、保健室まで送るという面倒くさい係に立候補したのも、八つ当たりをするため。


 自分はフラれたのに、誰がどう見てもカリーナとは釣り合わない根暗な陰キャが彼女と仲良く会話しているのが許せなかったのだ。


「おい、雨宮。この際だからハッキリ言うが、カリーナは俺の女だ。今度、俺の許可なく話しかけてみろ。ブチ殺すからな?」


 目をかっぴらいだ栗原は、仰向けに倒れている雨宮に顔を近づけ、威圧するように忠告した。

 東條や高咲とは比べ物にならない、恐ろしい形相だ。


 いつか、こうなることを雨宮は心のどこかで覚悟していた。

 カリーナを好きなのは他の男子たちも一緒で、中にはこのような恐ろしいことをする連中もいると、常日頃から警戒していた。


 そして、ついにその日がやってきてしまったのだ。


(怖い、怖い……)


 後ろの席に座るカリーナに憧れていた、かつての自分なら簡単に諦めていただろう。


(だけど……)


 ただの顔がいい冷たい人という彼女に対するイメージが、仲良くなってから雨宮の中で大きく変わった。


 可愛いのにひれ散らかさない。実は恥ずかしがり屋で声にコンプレックスを持っている。ゲームが人一倍好きで負けず嫌い。だけど、ちゃんと努力家。


 皆の知らないカリーナを知れた雨宮は、今まで抱いていた好きより、彼女の事がもっと好きになったのだ。


「やってみろよ!」


 栗原への恐怖心が消え、雨宮は拳を思いっきり振り上げた。

 人生で一度も人を殴ったことがないが、顎に直撃して生じた鈍い音と生々しい感触に、雨宮は目を閉じる。


 必死だった、カリーナの為かそれとも自分自身の為か。

 考えている余裕はなく雨宮はさらにもう一発、栗原の顔面に拳を叩きつけた。

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