第19話 恋をしている


「あのさ千歌……そうやって自分だけ納得して話しを進めようとする癖、そろそろ辞めにしないか?」


 感情を抑え込んでいた糸がプツリと切れ、雨宮孝明という男から一度も発せられたことがなかった、強い言葉が吐き出された。

 別人が憑依したかのような豹変に、東條は唖然とする。


「俺にも俺の意思があって、言いたいことも山程ある。いつまでも、お前の思い通りに動く都合のいい人形だと思うなよ……」


 堂々とした態度、冷淡な口調で東條と向き合う。

 彼に噛みつかれたことが一度もなかった東條は驚きのあまり言葉を失ってしまう。


 それを横目に、ソファから立ち上がった雨宮が一直線に向かった先は、カリーナが咽び泣いている椅子の前だった。

 床に膝をついて、涙を流すカリーナの目元にハンカチを押し付ける。


「ごめんな、カリーナ。君まで傷つけることになって……」


 人はそう簡単には変わらない、という熊谷の言葉を思い出す。

 彼の言う通りだ。自分が情けないままでいるせいで、寄り添ってくれた女の子の笑顔すら守れない。守られてばかりで、動こうとしなかったクズだ。


「孝明くんっ……ぐすっ……わたしっ」


 カリーナは押し付けられたハンカチを手にとって鼻を噛んだ。

 鼻を噛み慣れていない子供のように目を閉じて、ほぼ空気だけを出したような音に雨宮は愛おしさすら感じながら、振り返った。


「安心して、俺はどこにも行かないし、カリーナはどこにも行かせない。だって俺たち、相棒だろ?」


 緊張と歯痒さのない台詞と逞しい背中に、カリーナの目に雨宮の後ろ姿が尊敬する相棒のレインの姿と重なる。


 雨宮は枕をぎゅっと抱きしめている妹の杏奈の頭を撫でてから、東條の向かい側に座った。



「千歌の気持ち……嬉しいよ。こんな俺でも好きになってくれる人がいてくれるなんて考えもしなかったから。俺ばかりが勝手にその気になって、告白して、玉砕したと思い込んでいた。けど本当は、あの罵声の裏側には、別の意味が込められていることを知れて、すごく安心したよ」


 穏やかな眼差しで、雨宮はそう告げる。

 それを聞いて東條は安心したように溜息を吐いて、得意げに喋りだす。


「ええ、そうよ。あれも全部アンタのためなの。不真面目な部分を直してほしいのは本心だけど、やっと分かってくれて……」


「でも、俺は千歌とは付き合わない」


 世界が止まったかのように、リビングに静寂が訪れる。

 信じられない言葉を耳にして、それを確認するために東條はたどたどしい口調になりながらも質問してみせた。


「え……なに、それ……?」


「俺は、今でも変わらず千歌のそういう所が好きだよ。自分の考えと意見に、絶対的な自信を持っていて曲げないところが魅力的だと思う。君は変わった、変わることができた」


 かつて引っ込み思案だった東條千歌の姿が、脳裏を過った。

 懐かしい記憶だ。


「だから、それに至るまでの辛い道のり、努力を他の誰よりも痛感しているはずだ。人はそう簡単に変わらない。俺に、あそこまで過剰に突き放すような言葉を吐き捨てたのも、俺をどうしても変えたかったからだろ?」


 あのときの言葉の核心を、雨宮すでに理解していた。

 東條は付き合わないという彼からの言葉にまだショックを受けているのか、黙ったままだ。


「感謝していないと言ったら嘘になる。だって、千歌の言葉がなきゃ鏡の前で笑顔を作ったり、一人で壁に向かって発声練習をしたりしなかった。確かに人はそう簡単に変わらないかもしれない」


「なら、なんで付き合わないって結論になるのよ? 私のおかげなら私を嫌いになる理由がどこにも……」


 付き合わないと言ったのに、自分に投げかけられる肯定の言葉に矛盾を覚えた東條は口を挟むが、雨宮はそれを許さなかった。


「千歌は正しいよ、正しいけど……逆にその正しさが人を傷つける鋭利なナイフになっていることを君は気付いていない。自分の正しさに酔いしれて盲目的になっているんだ」


 雨宮は目を逸らしながら、悲しそうな声で告げた。

 告白での東條の言葉が今でも、雨宮の胸の奥底に深く突き刺さったまま、抜けていない。


「千歌はすごい、尊敬できる。だけど、昔の君はそうやって平気で人を傷つけるような子じゃなかった」


「そ、そんな……私はそんなつもりじゃ」


「なら、どうして杏奈がカリーナが泣いているんだよ、他に理由があるのかよ……」


 自分の犯した過ちを否定しようとする東條に、雨宮は初めて声を荒げた。

 友達、家族を傷付けられることが何より許せなかったからだ。


「……っ」


 迫力に押されて、東條は黙り込んだ。

 一旦、大きな呼吸を行ってから平常心を取り戻し、雨宮は続けた。


「こっちが先に告白しておきながら、身勝手な考えかもしれない。でも、周りにいる大切な人たちを傷付けるような人とは付き合うことができない……」


 お前の恋心はその程度か、安い想いだな。

 と、第三者から見たら非難されるかもしれない。

 しかし、それが雨宮の答えだった。


「ふざけるなっ! 私がどれだけアナタのために尽くしてきたと思っているのよ!? くだらないゲームのせいで自分じゃ起きれないアナタを毎朝起こしてきたのは誰!? まともにご飯も作れない二人に料理を教えたのは誰!? 全部全部全部! 私よ! 私! 許さない……絶対に許さない! 私がいないと、ずっとダメなくせに!!」


 拒絶されたことを許せなかったのか、東條は豹変したように身を乗り出して雨宮を睨みつけた。

 至極真っ当で、何一つ間違っていない。

 それでも雨宮は動揺で表情を崩したりしなかった。

 彼女なら、こうすると初めから分かっていたからだ。


「……最近、7時前に起床するようになってから気付けるようになったことが色々あってさ。今までのように体が重くなることも、憂鬱な気分で過ごすこともなくなった。ご飯も、杏奈と一緒に作るようになって、千歌のように口うるさく指導してくるけど、おかげで以前よりも上達したような気がするんだ。野菜の皮を剥くときだけ、指をよく切っちゃうけど」


「……」


「俺も俺なりに自分磨きを始めるようになったんだ。友達から、その調子じゃ卒業まで間に合うかって、よく小言を言われるけど。本気で変わろうとする気持ちに嘘はない……いつもの弱くて暗い孝明だと誰も守れないことを、今さっき痛いほど分かったしさ」


 大切な人を泣かせてしまったのを目の当たりにして、もう今までの自分ではいられない。

 雨宮孝明は変わらなくてはならないのだ。


「いつも俺のために朝早く家に来てくれてありがとう。杏奈に料理を教えてくれてありがとう……だけど俺は千歌を許さないよ。千歌の方も、俺をただの根暗な陰キャだって見下したままでいい」


 いつもの自己嫌悪な発言に反して、雨宮は晴々しい気持ちで告げてみせた。


「でも、いつか千歌を許せるようになって、千歌から認められるような人間に変わってみせるよ。半年、それか来年、卒業した後かもしれない。だけど、今度は俺も千歌のように、この意思だけは曲げないよう自信を持つことにするよ」


「……ばか」


 東條は鞄からペンダントのような物を取り出して、床に捨てた。

 パキッと割れるような音がする。

 ハート型のペンダントだった。


「アナタに渡すつもりだったけど、必要ないよね……?」


 溢れるほどの涙を流しながらも、東條は冷静を装った。

 そんな彼女の痛々しい姿を前にしても、雨宮の思いが揺らぐことはなかった。

 決めたことを曲げない、たとえ相手が小学生の頃から片思いをしていた幼馴染であろうと。


「……っ」


 雨宮の話しを夢中で聞いていたカリーナに、敵対心のこもった視線で睨みつける東條だが、すぐに諦めたように立ち上がる。

 玄関に向かって、弱々しい足取りで歩いていく。


 東條のした事を考えれば、当然の報い。

 彼女の切ない背中を見つめながら雨宮はそう自分に言い聞かせた。



 バタンと玄関の扉が閉まると、雨宮は膝から崩れ落ちた。

 その場に蹲り、涙を溢しながら抑えていた感情を爆発させる。


「ごめんっ……杏奈……カリーナ……俺が……俺がっ」


 初めて東條を言い負かせることができたという達成感が、雨宮にはこれっぽっちも湧いてこなかった。

 キスで一瞬だけ心を許したせいで東條を舞い上がらせ、カリーナに「彼女をもう家に招いてはならない」という酷い言葉を言わせてしまったのだ。

 そんな単純で、馬鹿な自分を雨宮は許せなかった。


「俺のせいでっ……こんなことにっ……」


「大丈夫……大丈夫だよ。だって孝明くんは、私たちのために頑張ったから……だから、もう苦しむのはやめて」


 泣き崩れる雨宮を、カリーナと杏奈は後ろから優しく抱きしめる。

 自己嫌悪に陥る雨宮がこれ以上、自身を卑下しないように声の震えを抑えながらカリーナは必死に慰めてみせた。


「もう二度と、孝明くんとお喋り出来ないんじゃないかって怖かった。家に来るなと言われて痛かった……なにも言い返せなかった。でも、孝明くんは私と杏奈ちゃんのために立ち向かって、守ってくれた」


「……」


 カッコつけようとしながらも、泣いてしまうところは非常に雨宮らしい。

 どんな情けない姿でも、カリーナが失望することはない。


 雨宮は変わりたいと、強い意思で東條に宣言した。

 カリーナはそんな彼に「変わらなくていい」と以前、ゲーム内で言ったことがある。

しかし、それが間違いであると、今なら理解できる。


 雨宮が変わろうとしている理由、それは東條にフラれたから、だけではなかった。

 それ以上に、雨宮は周りにいる大切な人を傷付けないため、と言ったのだ。


 その言葉と決心に心打たれたカリーナは、初めて彼に抱いていた想いの正体に気付く。


 カリーナは、雨宮孝明に恋していた。

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