第6話 助けを呼ぶ声
「田中君! まだ帰ってから六時間しか経ってないよ! なんでもう戻って来たの?」
「家で一寝入りして来たから、大丈夫でーす。一旦目が覚めちゃったら、なんかもう寝付けなくて」
田中君の金髪は心なしかしっとりしていて、いい匂いがする。多分シャワーも浴びて来たんだろう。家は、神田に近いマンションだと聞いているから、通勤に時間はかからないだろうけど、一体、何時間寝れたんだろう?
「おとーさんに取られないうちに、受発注システムのデータ復旧プログラム、作っちゃいますね」
苦笑いをしている大河内さんにパチっとウインクすると、田中君は自分の席の椅子を前後逆にしたまま、背もたれに胸を付けて座り、パソコンを開いてカチカチ打ち込み始めた。「おとーさん」というのは、大河内さんのあだ名。でも、使っているのは田中君だけだし、逆に大河内さんだけは田中君のことを「ひとみちゃん」と呼ぶ。師弟関係というよりは親子みたいだ。
田中君は、仕事に没頭したい所だろうけど、管理職として言わなきゃいけないことは言わないと。邪魔だとわかっているけど、隣の席に座って話しかけた。
「ねえ、田中君。まだ先は長いんだから、無理しちゃダメだよ」
「でも、
ホワイトボードを指差した。
「だったら、うしろで待ってる患者さんのために最速で手術を終わらせないと、じゃないですか」
「それはそうだけど」
椅子に乗ったまま、くるっとこちらに回って、背もたれの上で人差し指を立てた。
「大丈夫です。昔は限度がわかんなかったから、ぶっ倒れちゃったこともあるけど、今は自分の限界がわかってますから。倒れる前にモンエナ補給するんで、問題ないです」
「それ、一番ダメなやつ!」
またキラキラした笑顔になると、背もたれを前に回し、カチカチ作業を再開した。これ以上邪魔できないので、自分の席に戻る。
流出した可能性のある個人情報についてのレポートは、さっきセキュリティセンターに提出した。次は、リカバリ環境の準備の段取りと、それに対応するメンバーのローテーション計画を作らないと。それに、大河内さんの知り合いの会社への発注手続きを購買に確認して。
やらなきゃいけないことは、いくらでもあった。
夕方になり、田中君のデータ復旧プログラムは完成し、大河内さんによるERPの導入手順書集めにも目処がついたけれど、一向に具体的な復旧作業の予定が立てられなかった。
理由の一つは、犯人グループからの要求への対応で、部長や吉岡さんが、役員との会議にかかりきりになっていたから。
もう一つは、ネットワーク環境の再構築が、予想以上に時間がかかることがわかって来たから。ルーターやファイアーウォールに侵入された経緯は、まだわかっていないけど、管理者パスワードを変更した後もコントロールされてしまったから、別な機種か、別メーカーの製品に変えるべきではないかという意見が出ていた。どういう方針で復旧するか、調整にまだ時間がかかりそうだった。
ネットワークの構築ができないと、隔離環境のサーバーを立ち上げることもできない。新しく機械を購入するとなったら、いつ再開できるのか全然見通しがつかないじゃない。
作ったプログラムのテストをしたくても、開発環境も電源を切っているので、やることが無くなってしまった田中君は、珍しく椅子を前後正しい向きにして座り、背もたれによりかかりながらスマホを見始めた。
「世の中じゃ、うちの件どんな風に言われているのかなあ」
「さっき、インターネットサーバー担当してる第五オペグループが、広報から来たプレスリリース公開してたから、騒ぎになってるかもしれないね」
朝からずっと対応に追われていて、SNSなんか見てる余裕がなかった。
電源を切ったのは
「あー。色々言われてるなー」
スマホをフリックしながら、田中君がつぶやいた。
「マンガの新刊試し読みが読めないって泣いてる。ごめんねー。楽しみにしてたよねー」
すいすいとフリックしていた指が、ふと止まった。
「あ、来週発売だったんだ」
「来週は、結構発売予定多かったみたいだね」
今朝の対策会議で
「この人、小説投稿サイトで連載してた頃から応援してたんですよ。うちのコンテストに応募してくれて、特別賞取った時は嬉しかったなあ」
見せてくれたSNSの画面では、出来上がった文庫本の書影に合わせて、悲痛なメッセージが書かれていた。
『皆様、助けて下さい!』
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