第2話 初動
タクシー配車アプリで車を呼んで、本社に着いたのは三時半だった。
二時間でまた出かけるってわかっていたら、体だけ洗ってメイクは落とさなかったのに。タクシーが家に着くまでの十分では、着替えてから、BBクリームを塗ってリップをひくので精一杯だった。こないだ美容室に行ってストレートパーマをかけたセミロングの髪は、バレッタで押さえとけば落ち着いてくれるし、眉毛は元々しっかりしたままなので、気にしないことにする。
会議室に入ると、すでに十人くらいが席に着いて、大型ディスプレイに表示されている資料を見ながら対策を検討しているようだった。
「おはよーございます」
「おお、大橋か。久しぶりだな、会社で会うのは」
卓の向こう側で腕を組んでいるのは、私の上司でオペレーショングループ課長の難波さん。久しぶりって言うか、昇進祝いの二次会から三時間ぶり?
「あのー、ついさっき、どこかのカラオケボックスでアニソン熱唱されてるの聞いた気がするんですけど?」
「んー。だから会社では、ってね」
最後に会社で顔を合わせたのは、確かに半年以上前かもしれない。部内会議も、ずっとリモートだったし。
「遅くなりました。田中です。あ、大橋さん、お疲れさまですー」
軽やかな声で入って来たのは、田中君。さっき一報を入れてくれた田中
性的指向は知らないけれど体も性自認も女性で、本来「田中さん」と呼ぶべきなのだろうが、本人から「田中君」と呼んでほしいと言われているので、みんなそう呼んでいた。実際、そう呼ばれるのに相応しいボーイッシュな性格で、飲み会に来ると決まってホッピーの無限おかわりをしている酒豪だった。
「ごめんね、呼び出しちゃって。夜当番で大変だったでしょ」
「いいえ。大橋さんこそ、早朝に叩き起こしちゃってごめんなさい」
ニコッと微笑むと、本当にかわいい。これでアラサーかつあんな中身なのは、本当に詐欺だ。
「じゃあ、まだ来てないリーダーもいるけど、大体揃ったから始めるか」
一番前の席に座っているIT部長の飯田さんが声を掛けると、さっき電話に出てくれたセキュリティセンターの吉岡さんがマイクを取って話し始めた。
「それでは、緊急対策会議を始めます。まずは、初動対応をしてくれたネットワークグループの方から、状況報告をお願いします」
「はい」
ネットワークグループリーダーの酒井
うちの経理システムを含む、イントラネット上に構築された三十五のシステムのうち、四つのシステムがランサムウェアによってデータが暗号化され、二十のシステムでウイルス感染が確認されている。他のシステムは順次確認中だが、恐らくは何らかの影響を受けているはず。
インターネットに公開されているパブリッククラウドのシステムでは、ウイルス感染は確認されていない。恐らく問題ないはず。
ただし、イントラ側と連携しているシステムについては、パスワードが流出した可能性があるため、すでにパスワードを変更済み。
外部への情報流出を防ぐために、ファイアーウォールと
ログサーバーに集約している各サーバーの監査ログは、保全のために媒体に保管済み。
感染が確認されたサーバーは、メモリ上の証拠保全のために、まだ稼働させているが、外部との通信が遮断されて一定時間経過すると自分自身のプログラムを消去して証拠隠滅を図るタイプもいるので、各システムで必要な措置を終えたら、シャットダウンして電源を切ることが望ましい。
これまでに流出した可能性のある、個人情報、機密情報を、各システムで早急に洗い出してほしい。
手際よくざっと報告されたが、大変なことになっているようだった。
「質問いいですか?」
数人から手が上がる。
「電源を切るという話ですが、編集部のファイルサーバーくらいは、動かしていても大丈夫ですよね?」
「止めるべきだと判断します」
「そんなことをしたら、新刊の編集・校正作業も、印刷工場への指示出しもできなくなってしまいますよ。本が作れないじゃないですか」
「そこを媒介にして、ランサムウェアがさらに社内の端末に広がる可能性があります。作家さんのパソコンがウイルスに感染でもしたら、目も当てられないですから」
「ユーザー向けの
「残念ながらアドシステムも感染してますので、落とさざるを得ないです」
「ふざけんなよ。来週発売の書籍はどうやって宣伝したらいいんだよ! 文庫、単行本合わせて八冊も出るんだぞ!」
「営業部と、代替手段を考えましょう」
「あのー」
隣に座っている田中君が手を挙げた。
「取次からの受注処理システムも止めないとダメですか? あれを止めたら、出荷ができなくなりますが?」
「感染を除去し、安全が確認できるまでは停止すべきだと思います。そもそも、ルーターで遮断していますから、取次からの発注も来ませんし」
「それと、仕入先への支払は止められませんよね? 債務不履行なんかになったら、シャレにならないですよ」
「経理部に、手作業での対応をお願いするしかないと思います。下手に稼働させたままにして、元の請求情報が壊されたまま請求なんかしたら、それこそシャレになりませんから」
会議室がシンとなった。想像以上の大惨事だった。会社の仕事に必要な社内システムのほとんどを電源オフにするということは、朝になって出社してきた社員は、電話をかけて話をする以外、何もできないということだ。
さのさわ出版は、死んだも同然だった。
こちらを振り向いた田中君と目が合ったが、顔色が真っ青だ。経理システムのトラブルでも、対外的な支払だけは絶対に落とすなというのが鉄則なのに、それすらあっさり否定されてしまったから当然だ。私だって、二日酔いじゃなくて吐きそうだった。
「それで、全社のシステムを落とす手順は、いつできる? 緊急で役員を集めて、承認が取れ次第すぐに実行するから、大急ぎで準備してくれ。それと、電源を落とした後、どういう手順でデータを復旧していくか、その手順の検討も始めてくれ」
飯田部長が、重苦しい沈黙を破った。
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