出版社のIT部にはチート能力なんて無いから全力で戦うことにした

代官坂のぞむ

第一章 戦いの始まり

第1話 突然の電話

 スマホのベル音が、けたたましく鳴り響いた瞬間に目が覚めた。職場関係からの電話の呼び出し音は、他の電話とは区別して、古典的な「電話のベル音」にしてあるからすぐわかる。

 まだ真っ暗な部屋の中で、枕元の充電器に乗せておいたスマホに手を伸ばし、応答ボタンをタップする。

「はい。大橋です」

「夜中に済みません。田中です。おやすみ中ですよね」

「うん。寝てた。どうしたの?」

 田中君は、うちの会社、さのさわ出版のIT部のチームメンバーで、今日は夜番担当だったはず。夜番と言っても、社内システムはほとんどクラウド化されているから、会社に泊まり込んでいるわけではない。何か障害があったら、真っ先に連絡が行ってリモート対処する当番。

 田中君はソフトハウスからの転職組でスキルは高いから、大抵のトラブルなら一人で対処できる。それがわざわざ、チームリーダーの私のところまで電話を回して来るのは、よほどの障害に違いない。

「経理システムで、夜間バッチが異常終了したってメッセージが出たんです」

「そう。エラーコードは?」

「請求書照合処理で、データ読み込みエラーです」

 六月の二日目だから、経理システムではそれほど急ぎで重要な夜間処理は走ってないはず。請求書照合なんて期限まで三日も余裕を持って処理してるんだから、明日の朝ゆっくり原因調査して再実行リランかけてもいいんじゃないかな。それをわざわざ夜中に電話で叩き起こすって、どういうこと? 女性として初めてチームリーダーになった私への嫌がらせ?

 いかんいかん。昨日のお酒が残っていて気持ち悪いから、つい良くない方向に頭が行ってしまう。田中君はそんな子じゃない。きっと何か事情があるに違いない。


「明日の朝、リランじゃだめ?」

「ごめんなさい。最初は、それでいいと思ったんですけど」

 なんか焦っている声。いつものんびりしている田中君にしては、珍しい。

「リモートコンソールから入って見てもらえますか?」

「ん……。ちょっと待ってね」

 のっそりベッドから降りてデスクライトを付けると、会社から貸与されているノートパソコンの横に置いた腕時計が三時を指していた。

 昨夜は、自分のチームリーダー昇進祝いでチームのみんなと飲み会だったので、しこたま白ワインを飲んでいた。

 普段は、ほとんどリモート勤務だからメイクなんてしていないけど、昨夜は百年ぶりに街に出るから、夕方からしっかりメイクして出掛けていた。だから、帰ってからメイクを落とし、シャワーを浴びてベッドに入ったのは一時過ぎだったはず。二時間しか寝ていないから、二日酔いじゃなくてしっかり酒が残っている。

 田中君には悪いけど、ちょっと水を一杯飲ませてもらおう。


 キッチンから、水を注いだグラスを持って来てデスクに座り、パソコンを開いて遠隔操作画面リモートデスクトップにログインする。社内専用ネットワーク環境プライベートクラウドに構築してある社内システムには、厳重なネットワーク認証の防御壁ファイアーウォールを噛ませてあるから、会社貸与のこのパソコンでないとアクセスできないようになっていた。

 いつものように監視ウインドウを開こうとして異変に気が付いた。

 画面の真ん中に、真っ黒な背景で赤や黄色い文字の英語の文章がずらずらと並んだウインドウが、ドーンと開いている。こんなエラーメッセージパネルは見たことがない。

「田中君、お待たせ。なんか変なウィンドウが出てるね」

「大変ですよ。すぐにセキュリティセンターに連絡しないと」

「ん? なになに? このサーバーに保管されているデータは全て暗号化された。ただし安心してほしい。次の暗号資産口座に当日レートで10万ドル分送金すれば、何事もなく元に戻る。って、これランサムウェアじゃない?!」

 いっぺんに、酔いが吹っ飛んだ。

 経理システムがランサムウェアに感染したなんて、とんでもないことだ。


 ランサムウェアというのは、サーバー上のデータを勝手に暗号化して読めなくしてしまい、それを元に戻してほしければ金を払え、という誘拐犯のような脅しをかけてくるウイルスだ。一定期間が過ぎると、データを跡形もなく消してしまうという時限爆弾になっていることが多い。

 さのさわ出版の経理システムは、厳重に管理されたプライベートクラウド環境の中に構築されているから、通常のインターネット上に晒されているサーバーよりも安全なはずだった。そこに入り込まれているということは、システムの防御環境が突破されて穴が空いているはず。だとすると、他にも重要なデータが盗まれたり、システムが破壊されている可能性もある。

 しばらく前に、業界最大手の出版社がやられた時は、グループ会社のビデオサービスも含めて全面ストップしたけど、それに匹敵するセキュリティ事故になるかもしれない。

 一刻も早くセキュリティセンターに連絡しないと。


「田中君。すぐにセキュリティセンターにチャットで連絡するね」

「待って下さい。チャットシステムもアカウントが漏洩してるかもしれないから、電話の方がいいですよ」

「あっ、そうか」

 チャットシステムは、普通は限られたユーザーしかアクセスできないようにグループ管理されている。けれど、今のように社内システムに侵入されているということは、アクセスできるユーザーアカウントが盗まれている可能性が高い。つまりチャットの情報もそのまま外部に筒抜けになっているかもしれないのだ。触らぬ神に祟りなし。

「じゃ、一回電話切るね」

「はい。よろしくお願いします」


 電話を切って、改めて社内セキュリティセンターの緊急コール番号に掛け直す。ツーコールで出てくれた担当は、落ち着いた低音イケボだが、後ろでザワザワと話し声が聞こえる。中には大声で怒鳴っているのもいるし、かなり騒々しい。

「はい。セキュリティセンター吉岡です」

「あの、IT部第二オペレーショングループ長の大橋ゆみ子です。社内システムイントラの経理システムサーバーでセキュリティ事故発生インシデントです」

「状況を教えて下さい」

 田中君から連絡のあったジョブのエラーの件と、リモートコンソールで見えているランサムウェアの状況を伝えると、吉岡さんは落ち着いた声でポイントを復唱してから、こちらに質問してきた。

「大橋さん。ご連絡ありがとうございます。大橋さんのご自宅は、会社から遠いですか?」

 え、自宅から会社って、まさか。

「実は、IT部の他のチームからも同時にインシデント報告が上がって来てまして。これから緊急対策会議を開くことになりました」

「緊急対策会議、ですか。チャットで?」

「いえ、本社十階の大会議室です」

「え、そんなに大きな部屋で?」

 本社十階の大会議室というのは、二十人近くが手元ディスプレイ付きの大きな楕円形の卓を囲んで座れる部屋で、大型ディスプレイや音響システムも整っている。楕円卓の他に、三十人は座れる傍聴席のようなエリアもあり、普段は偉い人を呼んだセミナーや役員会なんかをやっている。システム障害の対策会議ごときで使うような部屋じゃない。


 一呼吸おいてから、後ろの喧騒に負けないように、イケボが一段と強くなって響いて来た。

「これまでに、イントラに接続されているシステムの半数がダウンしているとの連絡がありました。残り半数も、夜間バッチなどの監視対象が無いため、まだアラートが上がっていないだけかもしれず、実質全システムがやられている可能性があります」

「え、イントラの全システムが?」

 あり得ない規模の大惨事らしい。話が大きすぎて、ちょっと想像がつかない。

「ちょっと待って下さい。……」

 向こうの電話をミュートにしたらしく、後のザワザワ声も含めて無音になった。不気味な沈黙が十秒くらい続いてから、また喧騒が戻って来る。

「たった今、グループ全体に、事業継続計画BCP上の緊急事態発生が宣言されました。対策本部を立ち上げます。大橋さんには、BCPに基づく従業員召集がかかりますので、タクシーを使っても構いませんから、大至急、本社に来て下さい」


 ああ、リーダー就任初日でこれかあ。

 本当に私はついてない。

 頭がズキズキと痛み出したので、グラスの水を一気に飲み干した。


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