僕と、きみと、小説と、誓いと、
ルリア
僕と、きみと、小説と、誓いと、
「いらっしゃいませ」
ふつうのお店なら、店員さんの大きな声でそう言って出迎えられるはずだけれど、ここではそういった習慣は存在しない。
音のないざわめきが静かに響く。時々、だれかの咳が聴こえる。
そんなことを一切気にしない僕は、慣れた足取りで、しかしだれにも怪しまれない程度には素早く、目当ての売り場へ向かう──きょうに限っては。
なぜなら目当ての本があったから。
「あの小説、おもしろかったよ」
きみが放った言葉とその声色が、きみの表情が、僕の鼓膜と瞳をあっけなく占拠し、それ以降ずっと脳内で繰り返し再生されている。
なぜかそのまま胸があたたかくなって口元を緩めてみたり、苦しくなって眉間にしわを寄せてみたりしながら、僕はずっときみのことしか考えていなかった。
つまりいま、きみは僕を支配している──僕はあのときのきみに掴まれたままずっと離してもらえなくて、きみにそう言わしめて、その表情をさせた小説に嫉妬している、と言っても過言ではないかもしれない。
すこしでもきみの気持ちに、きみがその表現を通して得たであろう体験に近づきたいと思ってしまった。
きみがその小説を手にして、綴じられている一枚一枚のページに触れながら、そこに印刷された文字に目を通し、きみのそのひとりだけの小さく、しかしどこまでもひろくて自由な思考のなかで思い描いた数々のシーンと共に、みずからのものとして享受したそれらの表現が綴られ、最終的にきみの体験の原初となったその本が、そのまま僕の手元にあったらよかったのだけれど、僕はきみに「それを貸してほしい」と、そのたったひとことがどうしても言えなかった──きみに邪な気持ちを抱いていることを、僕は決して悟られたくはなかったから。
平然と「へえ、そうなんだ」などと適当な相槌を打ちながら、ただきみがうれしそうに話しているのをじっと見つめていただけだった。
「もしかして、興味ない?」
「いや、ちゃんと聞いてるよ」
すこしだけむくれた表情をするきみに悟られまいと、僕はきっと、僕の気持ちを覗きみることができるひとからすればさぞ滑稽だっただろうな、なんて思ってしまうくらいに平然を装っていた──ほんとうは、この手を伸ばして、うれしそうに話しているきみの頬に触れてみたかったのだけれど。
そんなことを考えながら、僕はこの場所、なにを隠そう、僕の住んでいる近所の本屋までやってきた。
ここにはもう何度も、数え切れないほどに足を運んでいる。けれど、僕はここに存在している本のほんとうに一部のものしか手に取ったことはないし、ましてや内容を正確に把握している本なんて、もしかしたら両手両足の指の数くらいしかないかもしれない──読んだことはあっても、すべてを思い出せるわけではないから。
新品の本がずらりときれいに収まっている本棚を、僕は美しいと思う。ここにあるそれらはまだ、だれにも触れていないページがたしかに存在している。
いつの日かだれかに触れてもらえる機会を、それらはじっと、ひっそりと、静かに、しかし謙虚に、佇んでいる。
出版社は──
作者は──
タイトルは────
僕の脳内にこびりついてずっと離れず、ましてやそれに支配されて、なんどもきみが言っていた言葉と声色をそのまま繰り返していた僕は、あっと言う間にその棚にたどり着いた。
「あった──」
きっとこれが、僕と、その小説とのさいしょの出会い。
きっかけはきみだった、そのことだってこれからさき、ずっと忘れることはない。
黄色の背表紙に黒色の文字。
きみが手にして読んだ小説とまったくおなじで、でもこれは、ずっと僕のことをこの場所で待っていてくれた、この世界にたった一冊の本。
はやる気持ちを抑えながらゆっくりと手を伸ばす。
美しく収められた本棚からその一冊を抜き出すときはいつだって緊張する。
本の上部に右手の指を引っかけて手前に引く──僕の指先の力に抵抗することなくするりと本棚から抜け出したその本は、表紙と裏表紙があらわになる。
かたり、と僕が抜き出した本の両隣が寄り添い合う──その音は、この本が僕に手に取られた嫉妬なのか、行き先が決まった祝福なのかは、僕にはわからなかった。
「見つけた」
手にした本の表紙を見たくてくるりと手をひねる──その本に販促用の帯はなく、表紙には薄く開いた扉と、ねこの後ろ姿が印刷されていた。
僕は純粋にうれしかった。探していた本がちゃんとそこで僕を待っていてくれたことが。
とくに目当てもなく本屋にやってきて、ふらふらと本棚の間を縫うように歩き、気になったタイトルの本を手に取るときとはまったく違った高揚感が僕を満たす。
もちろん、そこにはまた、きみの表情が、言葉が、声色がふわりと浮かび、また僕の口元がゆるゆるとゆがむ。
それだけが目当てだった僕は、その高揚感と満足感で満たされて早々にレジに向かう。
「カバーをおかけしますか?」
そう僕に問いかける店員さんはまるで「あなたはこの本を最後まで読むことを誓いますか?」と、この本と僕の間に、作者と読者のそれぞれの誓いを確かめる神父のような気がしてくる。
「お願いします」
それが、僕の誓いの言葉だ──たとえこの本を手にした理由が、僕がきみに対する邪な気持ちから始まったものだとしても、この本は僕を待っていてくれたし、僕はこの本を間違いなく、余すことなく読み切る。
「ありがとうございました」
その言葉を背に、僕は本屋から外に足を踏み出す。
この本を買ったこと、きみには読み終わるまで言わないでおこう──
びっくりさせてやろうとか、そういうつもりはない。けれど、その本を手に入れたことだけで僕が満足してしまったと思われるのは心外だし、まったく読めなかったらきみを失望させてしまうかもしれない──だから、読み終わったときに、「読んだよ」って僕が言ったときにきみが、すこしでも喜んでくれるといいのだけれど。
きみのそのひとりだけの小さく、しかしどこまでもひろくて自由な思考のなかで思い描いた数々のシーンと共に、みずからのものとして享受したそれらの表現が綴られ、最終的にきみの体験の原初となったこの本が、ぼくのこのひとりだけの小さく、しかしおなじようにどこまでもひろくて自由な思考のなかで思い描いた数々のシーンと共に、みずからのものとして享受したそれらの表現が綴られ、最終的に僕の体験の原初となったこの本の行く先が、すこしでも重なることを、僕は願っている。
ああ、でもまだ僕はきっと、この本を読み始めるまでは、きみにずっと支配されたままだ。
僕と、きみと、小説と、誓いと、 ルリア @white_flower
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