聖なる悪女 

七沢ななせ

第1話 辞職

 それは、デューティアナ王国に初雪が降った日だった。その日、王立舞踏館では建国記念の祝賀の儀が行われていた。


 国中の貴族が集まり、盛大パーティーを行う。宴も終盤に差し掛かり、王族のスピーチが終わろうとする時だった。王子アルフレートのスピーチの番になり、彼が開口一番に叫んだ言葉は誰も予想だにしなかったことだった。


「この俺、アルフレート・フォン・ブラウスは、陽炎ようえんの聖女ミリアリア・ダイアナ・スワンとの婚約を破棄する!」


 高らかに響いた声で、清らかで華やかなお祝いムードは一気に緊迫した空気に変わってしまった。


 束の間の静寂が広がる。嵐の前の静けさである。


 それが過ぎると次は嵐だ。貴族たちがどよめきの声を上げ、一段高い場所に堂々と腰かけていた国王夫妻が顔を青くする。一体何事か。誰もが席を立ちそうに腰を浮かし、顔を見合わせる中で、一人の女だけが冷静な顔で席についていた。


「王子殿下、その理由をお聞かせ願えますか?」


 貴族たちのざわめきのなかで、一段と響く声が緊迫した空気を切り裂いた。


 それは突然のことだった。並べられた貴族席の一番端に座っていた華奢な女が席を立ち、つかつかと王子の方へ進み出た。


 何の許可も与えられていないその行動に、皆が息を飲む。あの女は一体何者なのだ。王子の、してやったりといった満足げな笑みが消えた。


 大広間の中央にすっくと立つ女は、身じろぎもせず王子を見ている。その瞳に浮かんでいるのは怒りでも悲しみでもない不思議な色だった。女が身にまとっているのは襟元と腰が締まった純白のドレスと、腰のあたりまで届く同じ色のヴェール。細い腰に巻かれているのは金の細いサッシュが輝いている。それが聖女の正装であるのに気づくと、貴族たちは息を飲んだ。


 陽炎の聖女。ミリアリア・スワン本人の登場である。


 その名の由来となった、チェリーレッドの豊かな髪がヴェールの隙間から見え隠れしている。彼女は自分に注視する貴族たちにおびえることなく、髪よりもわずかに淡い赤い目で王子と向かい合う。


「ミリアリア、お前は悪女だ!」


 王子が唐突に叫んでも、ミリアリアは方眉を上げただけで、ショックを受けた様子は微塵もなかった。しかし、対する王子はあからさまに苛立ちの表情を浮かべる。


「何を根拠に?」


 ミリアリアの問いに、王子は一瞬口ごもった。ひたと王子を見据えるミリアリアに、王子は気圧されたように瞬きする。


(馬鹿王子。ちゃんとした説明もできないのに宣言しても、恥をかくだけなのに)


 そんな王子を眺めながら、ミリアリア本人は心の中で深いため息をついた。


(私と婚約破棄して、男爵令嬢と結婚するつもりなんだろうけど。あいにく上手くいくことはないだろうな)


 実は、ミリアリアは今回の事件の全貌を知っていた。


◇◇◇


 始まりは、秋の終わりごろだった。教会の裏で魔法の練習をしていたミリアリアを、一人の少女が訪ねてきたことがきっかけだった。供の一人も連れずに、おずおおずと教会までやってきた彼女は男爵令嬢だと名乗った。


「陽炎の聖女様ですよね……」


 男爵令嬢フレーナは泣きそうな顔でミリアリアに許しを請うた。ミリアリアの理解によると、フレーナが涙ながらに訴えたのは第二王子から求婚され、一時期は自分もそれを承諾してしまったということ。


 第二王子アルフレートは、ミリアリアが五歳の頃から婚約していた男だ。アレフレートが浮気をしていたことは薄々感付いていたが、まさかその相手が自首しに来るとは思ってもみなかった。


 去年の春頃から、アルフレートはミリアリアをぞんざいに扱うようになった。食事会にはほとんど遅刻、お茶会やミリアリアの誘いはか無視。ミリアリアとて、彼に差して愛情を持っていたわけではないため、そこまでショックを受けることなかったのだが。


(政略結婚だとしても、ここまであからさまな態度をとるなんて。無視し続けるわけにもいかないよね)


 面倒だが国王夫妻に直訴するかー、と丁度ぼんやり考え始めていたタイミングだった。


「私、怖くなって。男爵と聖女様じゃ、格が違うし。これって多分反逆罪だし……」


 フレーナが小心者だったことが救いだった。浮気をしていたことをフレーナに起こる気にもなれなかった。その代わり、教会裏に生えている木の幹に杖を向け、強烈な魔法の一撃を放って見せた。ばきばきと悲鳴と煙を上げながら真っ二つに折れた木には一瞥もせず、ミリアリアはフレーナを振り返る。


「フレーナちゃんは悪くない。でも今度王子に会ったら、こうしてやるから待ってなって伝えてくれない?」


 すっかり腰を抜かしたフレーナががくがくと頷くのを尻目に、ミリアリアはこっそり拳をぱきぱきと鳴らしたのだった。


◇◇◇


 これが今日にいたるまでの茶番である。


 王子は怯えながら自分のもとへやってきたフレーナを見た瞬間激怒した。一時はミリアリアを捕らえて投獄しろと怒鳴り散らしたようだが、周囲の人間が賢明だったおかげでさすがに捕まることはなかった。それでも気が収まらない王子は、建国記念という神聖な場で、ミリアリアに婚約破棄を告げることを決断してしまったというわけだ。


「お前はフレーナを脅して殺そうとした!」


 幼い子供のように、ミリアリアに人差し指を突き付けて叫ぶ。ミリアリアは笑ってしまうのを必死でこらえながらため息をつく。


「彼女がそう言ったんですか?」


 どこまでも冷静なミリアリアに、王子はついにぶちぎれた。


「黙れ黙れ黙れ! この性根の腐った馬鹿女が! 開き直るのはやめろ! 絶対殺してやる! 今すぐ死刑――」


 そのあとは続けられなかった。一瞬で王子との距離を詰めたミリアリアの右ストレートが王子の顔面にめり込んだのである。王子の鼻がぼきっと折れる音が響き渡り、みっともない姿勢で祭壇に背中から激突する。


(やっちゃった。気絶したかな)


 ピクリとも動かなくなった王子を見下ろして、ミリアリアは拳を下ろした。まあ、自分の知ったことではない。


 ミリアリアは右手の人差し指にはめられていた金の指輪を外す。複雑な古語――確か第精霊に送る讃美歌だった気がする――が彫られたそれは、聖女の証である。それを床に投げ捨てると、ミリアリアは大きく深呼吸した。


(もう聖女なんてやめてやる。これからは好きに生きるからね)


 くるりと王子に背を向けて会場を去ろうとしたその時、頭の中で声が響いた。


〈ミリアリア、コレデヨカッタカ?〉


 うん、ありがとうと頭の中で返す。ミリアリアに魔力を与えてくれる、というかミリアリアに寄生している精霊の声だ。普段は寝ているくせに、こんな時に限って起きてきたらしい。さっきの拳に勝手に魔力を加えて威力を増させた。まったく不謹慎な精霊である。


〈アノオウジ、ジゴクニオチロ〉


 ふふっと吹き出し、ミリアリアは目をむいて硬直している貴族たちを背にして、颯爽と会場を出ていったのだった。

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聖なる悪女  七沢ななせ @hinako1223

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