第652話 あるプロ野球選手の妻の話⑤

 「私、誰とも付き合ってなんかいないよ。

 好きな人はいるけど…」

「そうなんだ…」

 それっきりRは黙ってしまった。


「私、来週の休みにその人を映画に誘おうと思うんだけど、どう思う?」

 Rはビクッとした。明らかに動揺していた。

 もしかして気づいたか?


「そ、そうなんだ。み、水嶋さんと一緒なら、何の映画でも良いんじゃない…」

「何かオススメはある?」

「いや、俺は映画はあまり見ないし…。

 今、何やっているかわからないし…」


 明らかにRは落胆した表情をしている。

 もしかして気づいていないのか?

「じゃあ私が勝手に決めるね。

 9時に〇〇駅の改札前で良い?」

「え?、ああ、良いんじゃない?」

 そうしているうちに、駅についた。


「じゃあ、来週〇日、朝9時に」

「え?、あ、うん、わかった…」

 本当にわかったのだろうか?

 いやきっとわかつていないだろう。


 当日、私は約束の時間の10分前に改札に着くと、Rは学校指定のジャージ姿でその前に立ってキョロキョロしていた。

 明らかに通行人の邪魔であるし、そもそも挙動不審である。


「りゅーすけ君」

「うわわわっ」

 私が後ろから声をかけると、Rは数歩後ずさりした。

「待った?」

「い、いや。四、五十分しか待っていないよ」

 そんなに長い間、ここにいたのか。

 休日だからまだ良かったものの、平日ならさぞかし邪魔だっただろう。

 そもそも良く不審者として通報されなかったものだ。


「さあ、行きましょうか」

「え?、どこへ」

「映画行くって約束したでしょ」

「え、あ、ああ、そうだね」

 そう言って彼は私の後をついてきた。


 映画館はこの駅から、5分くらい歩いたところにある。

 私は歩きながら、Rの服装を見渡した。

 学校指定のジャージに、汚れた運動靴。

 並んで歩いている私達は、どんな関係に見えるだろうか。


 「着いたわ。ここの5階ね」

 私達はエスカレーターで5階に上がると、照明を落とした、薄暗い空間が広がっていた。


「はい、チケット」

 私は前もって買っていた、前売り券を渡した。

 「forget-me-not」「上野駅にて」「宝くじに当たるような確率の不幸について」という短編映画3本のオムニバスだ。

 その頃、巷でとても話題となっていた。

 全く面白くない、超駄作という意味で。

 私は怖いもの見たさで、見てみたいと思っていたのだ。

 Rはポケットから、千円札を取り出して、売店でジュースとポップコーンを買ってくれた。

 

 映画は噂どおり、とてもつまらなかった。

 私達の他は、中年の男性が一人いるだけで、そんなに広くない劇場は閑散としていた。

 Rは映画が始まって、5分くらいでユラユラと前後に揺れだし、その数分後には深い眠りに落ちていた。


 無理もない。

 B級映画マニアの私ですら、眠くなるような映画だった。

 ストーリーは陳腐で支離滅裂だったし、出演している俳優の演技も大根だった。


 映画が終わり、隣で熟睡しているRを揺すぶって起こした。

 Rはキョトンとした顔で、辺りを見回していた。


「どう、面白かった?」

「うん、とても感動したよ。良い映画だった」

 嘘つき…。最初から最後まで寝てたくせに。


 私達は近くのコーヒーチェーン店に入っていた。

 私はカフェ・オ・レを、彼はコーラーを頼んだ。

 店に入ると、何が珍しいのかRはキョロキョロしていた。


「ねぇ、一つ聞いて良い?」 

 Rは思い詰めたような顔をしている。

「何?」

「俺、ずっと考えていたんだけど…」

「うん」

「あの日、水嶋さんは好きな人を映画に誘うって言っていたよね」

「ええ、そう言ったわ」

「それなら何で俺を誘ったの?」

「何でだと思う?」

「うーん、練習台ということ?」

 やはり理解していなかったようだ…。


「もしそうだとしたら、どうする?」

 そう言うと、Rはうつむいた。

「そいつが羨ましいと思う…」

「どうして?」

「だって、俺は…」

 そう言ったきり、Rは黙り込んだ。


「何?、はっきり言って」

「いや、何でもない…」

 そう言って、またRは視線を落とした。


「じゃあ逆に私が質問して良い?」

「うん」

「何で部活でいつも私にだけ冷たいの?」

「え?、そんな事は無いけど…」

「嘘よ。みんなには〇〇ちゃん、って名前で呼ぶのに、私だけ水嶋さん、って呼ぶでしょ」

「そ、そうかな。そんなつもりは無いけど…」

 そう言ってRはまた俯いてしまった。


「りゅーすけ君は好きな人いないの?」

 私は単刀直入に切り込むことにした。

 鈍感男相手にはそれくらいしないと、何も進まない。

「え?、俺?」

 そう言うとRはまた俯いた。 


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