第630話 わが人生最良の日?
2回表の熊本ファイアーズの攻撃は簡単に三者凡退に終わった。
この回は僕のところに打球は飛んでこなかった。
おそらく、レフトは穴どころか素晴らしい名手がいるという判断だろう。
きっとそうだ。そうに違いない。
そしていよいよ今シーズン、初打席を迎えた。
熊本ファイアーズの先発は、エースの伊東投手。
平均150km/h台のストレートと、チェンジアップ、カーブ、スプリット等を投げ分けてくるとても厄介な左腕だ。
僕はバッターボックスに入った。
さあ初球、何の球でくるか。
言わずもがなであるが僕は不調である。
カーブ、チェンジアップを頭に入れて、ストレートのタイミングで、スプリットもケアする何て器用な真似はできそうにない。
いずれかの球種に的を絞らねば。
初球。
意表をつくカーブだ。
伊東投手のカーブは変化が大きいが、ストライクゾーンぎりぎりに決めてくるコントロールもある。
そして僕はこの球を待っていた。
今の調子では速い球をとらえる自信がなかったのだ。
僕は思い切り振りぬいた。
完璧に捕らえた。
打球はレフトに上がっている。
僕はゆっくりと一塁ベースに向けて歩き出した。
確信歩きというやつだ。
一度やってみたかった。
そして打球はそのまま大きな弧を描いて、レフトスタンドの最前列に飛び込んだ。
良かった…。
もしフェンスに当たっていたら、恥ずかしいし、しかもゆっくり歩いていたので2塁にも行けず、大目玉をくらっていたかもしれない。
僕は大歓声を受けながら、気持ちよくダイヤモンドを一周し、ホームインした。
ああ気持ち良い。
これは夢じゃないだろうな。夢なら覚めないで。
チームメートからの祝福を受け、ベンチに戻った。
「ナイスホームラン。俺のアドバイスのおかげだろう」
麻生バッティングコーチがベンチ内に響き渡るような大きな声で言った。
「はい、ありがとうございました」
どのアドバイスの事かはわからないが、大人の対応をした。
ストレス社会で生き抜くためには、このような社交性も重要かもしれない。
僕も成長したものだ。
そう考えながら、ベンチに座り気持ちよく汗をぬぐった。
試合はそのまま1対0のまま、中盤まで進み、6回にはブランドン選手のソロホームランも生れ、2対0とリードを広げた。
先発のバーリン投手はヒット3本、フォアボールを4つ出しながらも粘りに粘り、7回を無失点に抑えた。
開幕投手という大役をよく果たしたと言えるだろう。
ベンチに戻ってきてから、通訳を交えて武田捕手と機嫌よく何かを話している。
このままいくと、僕とバーリン選手のヒーローインタビューか。
嫌だな、長くなりそうで。
僕は僕でシャイだから、あまりうまく話せなくて、時々迷言を生んでいるらしいし…。(ちゃんと自覚はしているのですね。作者より)
試合は8回はルーカス投手が抑え、9回は新藤投手がピンチを背負いながらも何とか1点で切り抜け、見事開幕戦を勝利した。
僕は3打数1安打、1四球、1ホームラン、1打点、ファインプレー7つ、エラー無しと大活躍した。
(彼にとってはほとんど全ての守備機会がファインプレーのようですね。まあ別に良いですけど…。作者より)
マウンド付近に歓喜の輪ができ、チームメートと勝利のハイタッチをした。
そしてヒーローインタビューに備えて、ベンチに座っていると、マネージャーの石山さんがやってきた。
「おい、高橋。
奥さんのお母さんから電話があって、まもなく産まれそうということで、病院に向かっているそうだ」
「ま、マジですか」
「ああ、早く行ってやれ」
「でもヒーローインタビューが…」
「大丈夫だ。人生の一大事だ。
早く行け。こっちの事は全く気にするな。
むしろヒーローインタビューの事は忘れてくれ」
広報の新川さんもそう言ってくれた。
石山さんと新川さんからの温かい言葉を受け、僕は急いで荷物を片付け、球団が手配してくれましたタクシーに乗り込んだ。
もちろん球場には愛車のぽるしぇ号で来ているが、このように慌てている時は事故を起こさないとも限らないという、球団からの温情だ。
ありがたく使わせてもらうことにした。
もちろん料金は球団持ちですよね?
タクシーの中ではラジオでプロ野球中継が流れており、ちょうどバーリン投手のヒーローインタビューをやっていた。
アナウンサーの言葉を受けて、バーリン投手の言葉を通訳が訳している。
「はい、レフトに打球が飛んだ時はヒヤヒヤしましたが、何とか無失点で終わって良かったです」
何ですと?
「2回裏、その高橋選手のホームラン。
どんな気持ちで見ていましたか?」
「まあ、せめてそれくらいしてくれないと、帳尻が合わないと思います」
ほう。英語で帳尻って何ていうのだろう。
通訳が適当に喋っているわけではあるまいな。
「最後にファンの皆様に一言お願いします」
「コンシーズンモ、オウエンヨロシク。ソシテ、タカハシ、グッドラック」
バーリン投手がたどたどしい日本語で最後を締めた。
そして病院に着いた時、ちょうど生まれたところだった。
母子ともに健康であった。
神様、ありがとうございます。
今日は人生最良の日かもしれない。
そう思った。
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