第602話 一番大事なこと

 球団事務所を出たあとは、室内練習場でダッシュやノックなどで身体を動かし、最後に筋トレをした。


 大リーグ挑戦に向けて、長打力をつけたいが、そのためにスピードを失っては本末転倒だ。

 そのバランスがなかなか難しい。


 夕方、颯爽と愛車のぽるしぇ号を駆って、自宅マンションに戻った。

 ドアを開けると、翔斗が立って待ち構えていた。

 早いものでもうすぐ3歳になる。

 

「おっ、翔斗。ただいま。

 待っていてくれたのか?」

「パパ、翔君ね、欲しいものがあるの」

 いきなり誕生日のプレゼントのおねだりか。

 出来高も入るし、子供の欲しがるものなんてたかが知れてる。

 

「何だい。何でも欲しいものを言っていいよ」

「本当?、翔君ね、優しいママが欲しい」

「へ?」

 見ると翔斗は涙目になっている。


「どうして優しいママが欲しいんだい?」

「だって今のママ怖いの。

 翔君、何もしていないのに怒るの」

 そんな言葉を鵜呑みにするほど、僕もバカじゃない。

 火のないところに煙は立たないし、イタズラしない翔斗を叱る結衣ではない。


「翔君、正直に言ってみな。

 何かしたから、ママが怒っているんだろう?」

「ううん。翔君、何もしていないのに、急にママが怒り出したの」


 すると結衣がエプロンで手を拭きながら出てきた。

「翔の言うことは無視して良いわよ」

 明らかに結衣は怒っているように見える。

 

「一体どうしたの?」

「翔君、何もしていないのにママが怒るの」

 そう言って、翔斗が泣き出した。

 

「一体どうしたの?」

 僕は結衣に聞いた。

「翔斗がテレビは1日1時間と約束したのに、私が目を離した隙にテレビをつけたのよ」

「翔、本当かい?」

「だって、だって…」

 翔斗が泣きながら答える。


「〇〇レンジャー見たいんだもん…」

「さっきまで〇ンパンマンとクレヨン〇んちゃんのDVD見ていたでしょ。

 今日は〇〇レンジャーやるから見なくて良いの?、って聞いたら、「良い」と言ったから、DVDを見せてあげたんでしょ。

 約束守らないから、ママは怒ったの」

「だって、だって…」

 翔斗はまた泣き出した。

 

「こらこら」

 僕は翔斗を抱き上げた。

「翔斗はママと、テレビは1日1時間と約束したんだろう」

「うん」

「そして今日、1時間DVD見たんだろ?」

「うん」

「じゃあ、〇〇レンジャーは今日は見れないよね?」

「うん」

「うちのテレビは1週間分のテレビが自動的に録画されているから、明日、見れば良いんじゃないかい?」

「でも…」


 翔斗はまだ涙目だ。

「誕生日のプレゼントに、欲しいおもちゃはないのかい?」

「翔君ね、〇〇ロボが欲しい」

 〇〇ロボとは〇〇レンジャーに登場するロボットだ。

 5台のマシーンが合体する。


「わかった。

 誕生日に〇〇ロボを買ってあげるから、〇〇レンジャーは明日観ようか」

「うん」

 ということで、交渉成立し、夕ご飯を食べて、翔斗は寝た。

 今日は僕が寝かしつけた。


 「やれやれ」

 リビングに戻り、ソファーに座った。

 「翔斗寝た?」

 「うん、寝たよ」

「お疲れ様。最近、あんな感じなのよ」

「まあ、まもなく3歳になるし自我が強くなってきたんだろ」

「そうね。

 でも私の言うことは聞かないのに、貴方の言うことは聞くというのが釈然としないわ」

「まあ、まあ。

 そんなお年頃なんだろう」

「来年は幼稚園なのに、大丈夫かしら。わがままだし…」

 結衣が大きくため息をついた。

 

「そう言えば、球団からの話、どうだったの?」

「ああ、驚くくらいの好条件だったよ。ほら」

 僕はカバンから球団からもらった紙を取り出し、結衣に見せて、簡単に説明した。


 結衣はそれをじっくりと読んでいた。

 僕はその間に立ち上がり、2人分のコーヒーを淹れ、結衣の前に置いた。

 

「ありがとう。

 すごい好条件ね」

 さすが結衣。

 読んだだけで、内容をあらかた理解したようだ。

 

「出来高もすごい細かいわね。

 2塁打、3塁打の数や、盗塁成功率も項目にあるのね」

 そう言いながら、結衣は電卓を取り出し、叩き始めた。


 「球団の方は、今シーズン並みの成績を残すと、5,000万円を満額貰えると言っていたけど…」

「確かにそうね。

 あら、第2出来高というのもあるのね」

 

「第2出来高?」

「盗塁王や、ゴールデングラブ賞、ベストナインや、首位打者などのタイトルを取ると、別に貰えるのね。

 まあ、ホームラン王やシーズンMVPなんて無理だろうけど…」

 

「ああ、そういえば球団の方も、なんかそんな事を言っていたな…」

「さすがにこれを全部達成するのは無理ね」

 

 結衣の説明によると、第2出来高を全部達成するためには、三冠王と盗塁王、出塁率1位を取って、シーズンMVPとベストナイン、ゴールデングラブ賞を取って、更にはチームが日本一にならないといけない。

 あり得ないけど、契約上はそこまで書いてくれているということだ。


「で、どうするの?

 凄く好条件だけど…」

「そうだね。

 他にも色々な人に話を聞いて、じっくり考えてみるよ」

「そうね、でもこれだけは忘れないでね。

 お金の心配は当面しなくて大丈夫だから、貴方がやりたいようにやって。

 お金でプレーする先を決めないでね」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」


 そうだ。

 僕はプロなのでお金も1つの評価基準だが、それは二の次である。

 僕は野球が好きで、運良くそれで生活できているだけにすぎない。

 だから、一番大事なのは、自分をより高められる場所でプレーすることだ。

 改めて、そう思った。

 

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