エピローグ②

 それから数日。場所はフロレンスの中央広場カテドラル


「ベアトリーチェ様!」


「こんにちは!」


 女伯の来訪を受けて、フロレンス住民は大挙して彼女の元に押し寄せた。四方から歓迎の声が間断なく続けられる。


「ベアトリーチェさん。荷物持ちますよ!」


 そんな中、一人の青年がベアトリーチェに声をかけてきた。


「ありがとう。久しぶりね」


 どうやら彼女と少年は見知った仲のようである。


「僕、来年度から公証人として働くことになりました。ジュリアーノ様のもとで! これも読み書きを教えてくれたベアトリーチェ先生のおかげです。ありがとうございます!」


「あらあら。褒めても褒美はもらえないわよ」


「いえ、もう貰いました」


「え?」


「あなたに会えましたから!」


 青年の返答に、太陽すらも霞むような笑みで応えるベアトリーチェ。そんな二人のやりとりを傍で見ていたロミオが、母の服の袖を引っぱる。


「ママ。お知り合い?」


「うん、あなたが生れる前にここの貧民窟でお勉強を教えてあげたの。あの子はその時の一人」


「へえ、そうなんだ。僕ここに初めて来たから分かんなかった」


「うふふ、そうね。今までママと一緒にお勉強を頑張ってたからね」


 本来なら子息には教育係を付けてあれこれ教えるのが上流階層の当たり前であったが、ベアトリーチェはそんなことはしなかった。


 教えるだけなら教育係でもできる。


 だけど、親から教えられることでしか得られないものもある。


 ロミオの母である自分にしか与えられないものが。


 それは誰もが欲しいものだけど、ほとんどの人が得られないもの……。


「あ! パパ!」


 ロミオが大きな声とともに手を振った。ベアトリーチェは息子が手を振った方を一瞥いちべつする。


 何年経っても収まらない心のトキメキを感じたいがために。


 東から吹く風が女伯の恋心を蘇らせた。


 風にひるがえる青のマントに金で縁取られた獅子の刺繍。


 エミリア侯爵のものに違いなかった。


「久しぶり。ベア、ロミオ」


「パパ。こんにちは! お仕事頑張ってる?」


「もちろん。パパはエミリアで一番偉い人だからね。毎日困った人がパパの屋敷に助けを求めてくるんだ」


「大変そう」


「そりゃ大変さ。でも、困った人を助けるのが領主のお仕事だから逃げちゃいけないんだ。ロミオ、お前もママの仕事を見てきただろ?」


「少しなら分かるよ! 毎日執事さんから書類受け取って、ママがそれにサインして……でもね、ママね。たまに書斎で寝ちゃって、紙の雨を降らせてるんだよ!」


「あ、こら、ちょっと。ロミオ!」


 息子が夫に自分の恥ずかしい姿を暴露されると思わなかったベアトリーチェは、顔を熟れたリンゴのように赤らめた。それをニヤリと見やるレオナルド。


「あはは! そうか。じゃあ、ロミオがママを支えてやらないと。ママは書類仕事が苦手のようだからね」


「うん。僕、ママとパパの国の人が幸せになれるように頑張る! 歳を取ったパパとママのお世話もできるように勉強するね!」


 夫婦は「まだまだ領主はやめられないな」と思うのであった。



「ねえ、レオ」


「何だい、ベア?」


 開演に向けた準備をしつつ、中央広場に設置された劇場の舞台裏で二人は語り合った。


「領主になって十年経ったけど……。毎日疲れてばかりで休まる暇がないわ。三日前にはミディオラを領有するチェーザレ様との会見があって、もうクタクタよ。あの人すごく横柄なんだもの」


「僕もだよ。エミリアの復興は中々進まなくてさ。一日が終わる頃にはくたびれてる。完全に再建されるまであと何年かかるんだろうって思わない日はないよ。でも、領民のためを思えば何でもないさ」


「そっか」


 ベアトリーチェは、髪をヘアネットでまとめて、紫のサテンドレスを着用するという貴婦人の恰好になった。


 一方のレオナルドは、縁の盛り上がったフェルトの帽子に、体に密着した上着とタイツという出で立ちであった。


「あ、あのね。ロミオが」


「ん? ロミオがどうしたんだい?」


「私たちのキスの事を聞いてきたの」


「はは、そうか。まあ、ロミオも十歳だからそういうのに興味を持ってもおかしくないな。それで?」


「いつか見せてほしいって。それで、私たちとロミオがいる前でしてほしいの。ダメ?」


「断るわけないだろう? だって、もう何年も公務で君と二人きりになれる時間が取れてなかったんだから。僕の唇は君を求めてやまないよ」


「な、何言って」


「その反応。さては君も僕の唇を求めてたね?」


「そ、そんなことない!」


 ムキになった妻を見て、レオナルドは思い出す。十年前の出来事を。


 二階のバルコニーで沈んだ顔をするベアトリーチェ。


 そんな彼女を力の限り抱きしめて愛してやりたいと思うも、それができないでいることがもどかしかった若い頃の自分。


 せめてもの慰めと思って、彼女の唇に人差し指を当てた自分が悔しくてならなかった。


 近くに愛したくてたまらない人がいるのに愛せない。


 それがこんなにも苦しいとは思わなかった。


「ほら、レオ。もうすぐ開演よ。今日はジュリアーノ様主催の劇に私たちが役者として参加させてもらえるんだからね。台詞の確認しなくていいの?」


「ばっちりさ。一度読めば、まず忘れたりはしないから」


 そう答えた時のレオナルドの目は、手に持っている台本の脚本担当の名前に注目していた。そこにあったのは執政官コンスレジュリアーノの愛娘の名。


(ジュリアーノさん。まさか、僕の妹の名に準えて……。いや、まさかな)


 やがて、二人の耳に会場の喧騒が入ってくる。上演まで間もなくであった。


「レオ。さっきのキスの件は――」


「え? ああ、もちろん。後でしてあげるよ。をね」


 色白のベアトリーチェが頬をまだピンクに染めているのを眺めながら、レオナルドは息子ロミオの願いを叶えようと決心していた。


 自分たち夫婦がいかに深く愛し合っているのかを示すために。

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