赤いアザミは口づけとともに散る

(レオ兄様! あたしを置いていかないで!)


 普段は滅多に汗を流さないジュリアが、人生で初めて力の限りに市内を駆けまわった。自分に浴びせられる目線など気にも留めず、一心不乱に。


「あ、おい。勝手に外に出るんじゃねえ!」


 黒衣団の兵が制止しようとも、ジュリアは止まらなかった。愛の力がそうさせたのか。自分よりもずっと大きな男たちを突き飛ばし、彼女は聞き知った情報を頼りに現場へと向かった。


 レオナルド戦死の理由とされた、獅子模様のマント――侯爵家の紋章が刺繍されたそれが発見された西部の森へと。


「綺麗な紋章だな」


「だろ? お貴族様の着る物ってのは、どれもこれも良い物ばかりだったが、やっぱ侯爵家のものは弱小都市の貴族連中のとは大違いだな」


「おいおい、独り占めすんなよ。俺にも破いて一切れよこせ。それだけで何カ月も暮らせるんだからさ」


 前方からやって来た二人の男が、ジュリアにとって見たくない物を堂々と持ってきた。


 血だらけの獅子模様のマントを。


「駄目だ。ブローチで我慢しろ」


「ちっ……まあいいや。じゃあ、そいつを」


「返して!」


 ジュリアは悲痛な叫びとともに男二人に突進する。その顔が鬼気迫るものであったためか、それとも彼女のがむしゃらな行動に気圧されたのか。大の男二人は思わずマントを手放してしまった。


「あ、ああ……嘘。嘘よ!」


 兄の温もりを感じるために、ジュリアは手にしたマントを強く握りしめた。だが、それはとっくに冷え切っていて、彼女が心から望んだ兄の生存を確信することはできない。


 ジュリアの心の命綱が切れた。


 もう生きていても仕方がない。だって、愛する兄はこの世にいないんだもの。


 だったら……。


「おい、どうしたってんだよ!」


 男の問いかけには答えず、ジュリアは一目散に地下室へと走りだした。


 苦しまずに兄のもとに旅立つために。


 ジュリアは死を決意していた。


「……」


 生まれてから長い間を過ごした空間ともこれでお別れと思うと、ジュリアの決心は鈍った。


 死は怖くない。


 けれど、自分が生きていた証は残しておきたい。


 そう思った彼女は、机に置かれた日記帳――イザベラから取り返したそれに今日の日付を記すと最後の一文を記した。


『愛しのお兄様とあの世で結ばれるために、私は旅立ちます』


と書き終えたジュリアはペンを置き、一呼吸おいてから隣のカップに手を差し出した。それを握ると一気に飲み干した。


 かつて、グロウディッツ皇妃ヨハンナが妹マチルダを毒殺した際に使用されたのと同じ配合の猛毒が、ジュリアの喉を潤していく。


 その時である。扉が開くと同時に、竜の兜を被る傭兵隊長が姿を見せたのは。


「おい、侯爵の娘。お前の兄貴について知ってることがあれば――」


 絶句するゲラルド。彼は今にも息絶えそうなジュリアが椅子から転げ落ちるのを支えてやる。


「何をしやがった? 自殺か?」


「れ、レオ兄様。生きてらしたのですね……」


「!?」


 はたして、ジュリアは混濁した意識の中で何を見ていたのであろうか。


 もしかしたら、この時の彼女の視界はゲラルドを最愛の男と見間違う程に著しく歪んでいたのかもしれない。


「生きてらしたのね……。あたしったら早とちりで……レオ兄様。悪い奴らを招き入れてごめん……なさい」


 過ちを認め、許しを乞うジュリア。だが彼女の話し相手は、他ならぬ彼女自身が招き入れた「悪い奴ら」の首領その人であった。


 ゲラルドの心境は複雑であった。


 どうすればいい? 


 もうすぐ最期を迎える彼女に、自分がしてやれることは何だ?


 人違いだと答えてやることか? いや、違う。


 彼女は愛する人に看取られることを望んでいる。たとえそれが錯覚による幻であったとしても。


 この時、ゲラルドは母がやせ衰えて死ぬ寸前の出来事を思い出した。あの時、母は自分の手を取って、


『死んだ父さんと母さんの分も頑張って生きて』


と言い残して死んだ。涙を一滴も流さず、嬉しそうな死に顔で。


「……」


 数秒の沈黙の後、ゲラルドは柔和な顔をつくって優しく語りかけた。


「安心するんだ。悪い奴らは俺がやっつけたから」


 ゲラルドは芝居を打つことにした。ジュリアの願いを叶えるための、生涯で一度しか上演されない大芝居を、観衆のいない地下室で。


「レオ兄様。『俺』だなんて……随分と物騒な言葉を使い……なさるのね」


「すまない。敵をやっつけてきたばかりで興奮してるんだ。すぐにでもお前に会いたくて」


「そうだったのですか……嬉しい。ねえ……レオ兄様。ジュリアの最後のお願い……聞いてくれませんか」


「遠慮しないで言ってくれ。できることなら何でもしてやる」


「口づけを……。力の限り、あたしの唇を……奪って」


 ジュリアの願いに、ゲラルドはすぐに返事ができなかった。状況からして彼女は毒を仰いでいる。おそらく唇にはまだ毒が残っているであろう。そんなジュリアにキスをするということは、自分も毒を口にすることを意味する。


 加えて、自分は彼女の兄ではない。会って間もないほぼ他人である。そんな自分が少女に口づけしてよいものか。


 ゲラルドが思案しているうちに、ジュリアの呼吸は着実に弱っていく。毒が全身をむしばみ、死が近づいているのは明らかであった。


 ゲラルドは決断した。最後までジュリアの願いに応える、と。


 たとえ、自分が毒を口にしてもかまわない。自分が犯してきた罪に比べれば何の事はないと自分を納得させると、


「愛してるよ、ジュリア」


 安らかな死を迎えられるよう、ジュリアにそう言ってから熱い口づけを交わした。


 自身の持つ「アモルの目」を最大限に利用し、ジュリアに精一杯の「偽りの愛」を注ぎながら。


 恍惚こうこつの目となったジュリアは満足したかのように、


「よかった……生まれてきて……本当に」


と言うと全身から力が抜けていった。目を見開いたままで満面の笑みを浮かべて。


「ねえ、ゲラルドさん。私、あんたに言いたいことが……あら?」


 最悪のタイミングで、イザベラが現れた。彼女はむくろとなったジュリアと、それを抱きかかえたままのゲラルドを見やると場違いな笑みをつくり、


「あんたが殺したの?」


と尋ねた。ゲラルドは彼女にの方に向き直ると、


「違う。絶望して毒を仰いだんだ。俺のせいでな」


と告げた。


「そう、まあどうでもいいわ。レオナルドを狙うライバルが一人減ったのは好都合だし。ふん、兄妹愛に身を焦がすなんて、あーあ。ほんと、馬鹿な子――」


 鈍い金属音が、狭い室内に重く響いた。ゲラルドの籠手を付けたうえでの右ストレートが、イザベラの右ほおにクリーンヒットしたのである。


「なにすんだよ、この野獣!」


「俺は野獣じゃない。人間だ!」


「はあ? あんたが真っ当な人間なわけないじゃない。金のためならどんな悪事だってするゴロツキの親玉が、何を今更人間ぶってるのよ。愛されたこともないくせに! その子とおんなじよ。お似合いね」


「違う!」


 ゲラルドは強く否定した。自分のためにではない。ジュリアのために、彼は訴えた。


「こいつは、この女は少なくとも兄からは愛されていただろうよ。間違った愛だろうがなんだろうが、確かに愛はあったと思う。だが、あんたと俺は違う。誰からも愛されないし、誰かに愛してもらおうともしなかった。なんだよ!」


 イザベラは何も言い返さず、代わりにジュリアが室内に置いていた赤いアザミの花を踏み潰していった。


 花言葉の「復讐」の通りに、イザベラは恋敵の部屋を飾る花々を滅茶苦茶にし終えると、


「あんたの兵を一部もらってくわ。お父様が死んだ今、空席のミディオラ公には私が着くから。じゃあね、情けない傭兵隊長さん。あんたはもう用済みよ」


と捨て台詞を吐いて、地下室から出ていった。


 ゲラルドは何も言い返さなかった。ジュリアの飲んだ強力な毒が彼の脳に支障をきたしていたのか、それとも別の理由によるものか。それは本人にしか分からない。


 ただ、これだけは伝えておきたい。


 彼がジュリアの遺体をそのままにしておかず、市内の共同墓地に手厚く葬ったということ。


 そして、彼女のために人目を憚らず涙を流したということを。



 赤いアザミを捨てて、ジュリアは旅立った。彼女は幸せであったに違いない。大好きな兄の幻に看取られたのであるから。


 無論、ジュリアのしたことが許されたわけではない。父親殺し、首都陥落をほう助した責任は彼女に帰せられてしかるべきであろう。


 だが、それは死後の世界を統べる神に審判を委ねるほかない。生者は死者を裁けないのだから。


 兄を愛したがゆえに暴走した侯爵家の娘は何も語ることはできないし、もう誰にも悪さをすることはない。


 ただ一人、偽りの愛を注いだ罪悪感に苦しめられたゲラルドを除いては。


 ジュリアの死は、ゲラルドに破滅をもたらすこととなる。

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