起死回生の一手

 ジャン王は手紙をくしゃりと握りつぶした。書き主の余りの傲慢さにはらわたが煮えくり返る。


 だが一方で、彼は政治的な決断を迫られてもいた。


 法皇を送るべきか否か。


 送れば、皇帝の戴冠は行われるだろう。だがそうすれば我が国の弱腰を見て取ったフェデリコ帝が黒衣団を尖兵として、ノマーニャ領内への侵攻を考えるかもしれない。


 拒否した場合も明るい展望は見いだせない。法皇からの戴冠を重視する皇帝のことである。やはり領内侵攻の可能性は排除できない。


 法皇の身柄が、ジャン王とノマーニャを危機的状況に陥れていた。


「おお、ノマーニャ王ジャン。わしをどうか、あの傍若無人な悪帝の尖兵どもに引き渡さないでほしい。そうしてくれたら、そちの国に課しておる教会税を免除してやろう」


 先ほど姿を見せたばかりの法皇マルティヌスは、今や帰る場所を奪われた身でありながらジャンの足元に縋りつく有様であった。今まで一度さえ神聖教の神に心から心服し、こうべを垂れたことのない男がである。


 彼の評判を聞き知っているジャンには虫唾が走るような振る舞いであったが、そこは賢王。政治的駆け引きを個人的感情より優先させる。


「法皇猊下げいか。私はあなたを黒衣団に渡すつもりはありません。神に誓って、約束を守りましょう」


「ほ、本当か?」


「ただし条件が一つ」


「なんだね? わしゃ助かるためなら何でもする。遠慮なく言ってくれ」


「フェデリコ帝に冠を授けて頂きたい」


 王の要求を聞いた途端、法皇は不快感を露わにしつつかぶりを振った。


「それだけはできぬ」


「ならどうするおつもりで? それを呑んで頂けないならば、私はあなたを引き渡さざるを得ませんが」


「や、やめてくれ。それだけは……。都に到着した瞬間に殺される……」


 途端に法皇は泣き落としにかかったが、ジャン王は容赦しない。


猊下げいか。半島平和のための止むを得ないことと割り切って頂きたい。あなたとて離れ離れとなっている姪のクラウディア様のことが心配ではないのですか?」


「無論だ。ああ、愛しのクラウディア!」


「でしたら、苦しい決断かもしれませんがどうか戴冠を検討して頂きたい」


 そこまで言うと、やや間を開けてジャン王は続けた。


「三百年もの間くすぶり続けた、帝国のラティニカ政策を終わらせるチャンスですよ。


 それとも、歴代の法皇と同じてつを踏むおつもりですか?


 から連綿と続く、皇帝派と法皇派の対立とそれに連なる都市国家同士の紛争を自分の手で終息させたいと、猊下げいかはお考えに――」


「そんなことは分かっとるわい!!」


 老いた法王の咆哮が響く。そこには先ほどまでの驕りは感じられなかった。


「わしとてな。平和であるのが一番じゃと思うとるわ。人々が気兼ねなく都を訪れ、教会に、いや、わしや高位聖職者にお布施をしてくれれば、何の問題はなかろうよ。


 じゃがな、若き王よ。考えても見よ。この半島に恒久的な平和が訪れたことなど一度もない。少し前のミディオラ公の死を知れば、そんなことは明らかじゃろうて。半島内の領主どもはな、己が富み栄えれば、後は知ったこっちゃないのだ!」


「半島最大の領主である、あなたのように……ですか」


 ジャン王の皮肉を無視し、法皇は遠慮なく続ける。


「大体、グロウディッツ皇帝家がその代表ではないか! たかが帝冠とかいうもののために血眼になって半島の領主どもを煽ってきたのだ。世代が変わろうとも、三百年の時を経ようとも、皇帝は寂しい頭に冠を求め続けてきたのだ!


 確かに、法皇が冠を授けた例がないわけはないが……それは授けられた当人が死んだら返還する定めでなされたもの。現皇帝に授けたところで、奴が死ねば元の木阿弥もくあみだ!」


「なら、帝冠を子息に相続できるように取り決めればよろしいのでは?」


 冷静に、相手を無用に刺激しないように語りかけるジャン王。


 ここで若き賢王のの真価が発揮される。


「それでも帝国の侵攻が怖いというのでしたら、三百年前と同じように女伯を盾としましょう。そうすれば、猊下も皇帝の本格的な侵攻に心を悩まされずに済みましょう」

 

 キョトンとする法皇。三百年前と同じように? それはつまり……。


「あの……獅子のように勇猛で、男から恐れられた女伯を再び半島内に生み出せ、と?」


「ええ、そうです。嫌とは言わせません。なにせ」


 二人の耳に届く靴音。自分たちの方に近づいてきているのは明らかであった。


「もう候補者はいますのでね」


 扉の開閉音とともに姿を見せたのは、


「久しぶりね。あ……公の場だから姉弟として振る舞うのはよくないわよね」


 ガーターを履いて、堂々たる佇まいで歩み寄る一人の女性であった。左右に騎士と執政官コンスレを従えた彼女に、ジャン王は答えた。


「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。姉さ……。それにジュリアーノ殿と国を追われたエミリアの子息殿」


 黒衣団に荒らされ続けてきたラティニカ半島に、起死回生の風が吹こうとしていた。

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