第八章 ゲラルド、悲しみを知る

小さな敗北、大きな動揺

 ラティニカ半島は今まさに風前の灯火であった。


 もしもゲラルドがその気になれば、半島全体が地獄となっていたであろう。


 ただ幸いなことに、ゲラルドはラティニ劫略後に行軍を停止してエミリア領内に留まり続けていた。


 一体なぜ?


 理由は二つあった。


 一つは、ゲラルドが兼ねてより心配していた給与の問題。


 実はラティニ劫略ごうりゃくを終えた時点で、ゲラルドが皇帝と交わした雇用契約期限の二ヶ月が間近となっていた。そこで契約更新のために、彼は使者を帝国の宮廷へと派遣。今だ一銭も支払われていない兵士への給与支払いを催促する旨を伝えたが、


『もう一仕事してはくれまいか。旧エミリア侯国領の支配権をお主に与えるから、同地を完全に安定させよ。それを確認してから余は直々に軍を動かし、その際に給与を支払うつもりだ』


との返事を皇帝から受け取るとゲラルドは考えあぐねた。部下たちが自分の指示に従わないようになっていたからである。


 金がもらえないならば動かない。


 タダ働きなんざ御免だ。


 兵士たちに厭戦えんせん気分が漂いつつあったため、ゲラルドは彼らの不満を和らげる方策を実行に移した。


「西のサン・ペルジーノを攻めろ」


 サン・ペルジーノ。


 エミリア領とフロレンス領の双方に接する総人口二千人の同都市は、ルッチア領主チェーザレの領有する飛び地であった。

 

 ゲラルドがそこへの攻撃を指示したのには部下の溜飲を下げる目的もあったが、加えてサン・ペルジーノにまつわる伝説が関係していた。


 三百年もの昔に、グロウディッツの皇帝が辛酸をなめさせられた地。


 かつてのフロレンス女伯マチルダが、皇帝との戦いに勝利した場所。


 そのマチルダが毒殺された場所でもあり、時の皇帝エンリコが空疎な勝利宣言に領民が石を投げて戴冠を断念させた都市。


 半島の人々にとっては象徴的な、かつての勇ましい女領主が根城とした都市を落とせれば、半島内での抵抗も弱まるかもしれない。


 そんな思惑のもとで、ゲラルドは指揮官を付けた総勢千の兵力でサン・ペルジーナ攻めを決行したのであるが……。結果は惨憺たるものとなった。


「団長……申し訳ありません!!」


 ボコボコにへこんだ鎧兜を纏った指揮官が僅かな仲間と一緒に現れた時点で、ゲラルドは察した。自分が下手を打ったことを。


「門が全て開け放たれていたので、何かあるなと思って身構えていたのです。そうしたら……」


 指揮官の男は市内への突入を躊躇ちゅうちょした結果、西から急行してきたチェーザレの軍――つまり、一度は背中を見せて敗走した連中――に虚を突かれ、兵のほとんどを失ったことをゲラルドに話した。


 自分が指揮を執れば、このような事態には陥らずに済んだ。そう思ったゲラルドは大きく舌打ちをしてみせると、


「クソったれが! チェーザレの野郎、なんざ使いやがって!!」


と叫び、旧侯爵の屋敷に置かれた調度品に当たり散らした。そう、チェーザレは自軍が敗走した場合のことも考えて、サン・ペルジーノの守備隊に計略を授けており、それにゲラルドの一隊はまんまとかかったのである。


 とは言っても、この時点で黒衣団は総勢一万という半島諸国家が動員できる全兵力を上回る兵数を有している。よって、ゲラルドの立場は揺るがない……ということにはならなかった。


 数だけいても所詮は傭兵。まとめ役のゲラルドと同じく金銭目的で合流するならず者ばかりで編成されている集団である。そんな連中が一度でも敗北を知ったらどんな反応をするか。


 金銭よりも命の方が大事。


 そう考えても無理はなかった。そこに給与未払いとくれば、黒衣団という組織全体に動揺をきたさない道理はない。


「団長、部下の脱走が相次いでいます。どうされるんで?」


 当然、そのような状況を危険視し、ゲラルド本人に善後策を求める隊長たちも続出した。だが、団長のゲラルドは屋敷内に保存されていた酒を浴びるように飲みながら、


「放っておけ。負けたぐらいで脱走する腰抜けなんざ、いられても迷惑なだけだ」


と告げ、何の対策も打たなかった。


 ゲラルドの態度は、着実に黒衣団を崩壊へと追いやった。


 当初の脱走は末端の連中だけであったが、時が経つにつれ隊長格の男たちまでもが抜け出すようになっていった。


 やがて、その内の一人がサン・ペルジーノを経てフロレンスにいたジュリアーノに組織の内情を洗いざらいぶちまけると、


「これを逃す手はない」


執政官コンスレは重い腰を上げ、半島全体の平和へと動き出すきっかけを与えることになった。


 だが、ゲラルド本人はまだそのことを知らない。この時の彼にとっては、もう一つの出来事の方がよほど精神的に堪えていた。


 イザベラとジュリアの行動が、狂暴な傭兵隊長の心をすり減らしていたのである。

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