狂人ジュリア

 レオナルドはうまやへと駆けていた。


(どうして父さんを……ジュリア!)


 侯爵の子息が城壁の見張り場から市内に降りるのと同時に、開かれた北門から包囲中の黒衣団の一隊が津波のように押し寄せてきた。それに続いたのは女性や子ども、老人の悲痛な叫び。


(ジュリア! どこにいるんだ!)


 レオナルドは妹に問いただしたかった。


 どうして父を殺したのか。


 確かにあの人は好きになれなかった。


 自己愛が強くて、表面上は穏やかでも内心では自分や妹のことを愛していないことも分かっていた。


 でも、だからといって殺人の罪を犯すだなんて!


 君のしたことは間違ってる!


 数日前に自分が妹に手渡したハンカチ――妹が下手人という紛れもない証拠を、レオナルドは懐に入れていた。


 八年前に父から惨い仕打ちを受けて以来、ジュリアは父の仕事場に足を踏み入れていない。そんな妹の持ち物が父の遺体があった現場でハンカチが見つかり、しかも血液が付着している。

 

 もはや疑いの余地などありはしなかった。


(僕の馬は……あった)


 だが今は救える命を救うことを優先せねば、とレオナルドは屋敷に隣接するうまやに繋がれていた白毛の愛馬にまたがり、市内に繰り出そうとした。その時。


「レオ兄様!」


 地下室からジュリアが飛び出して来たかと思うと、そのままの勢いで兄の胸に飛び込んできた。


 レオナルドは面食らって、片足を拍車に引っ掛けた状態から地面に落っこちてしまう。


「ジュリア!?」


「ねえ、聞いてください。レオ兄様。あたし、やりました。あたし――」


 ジュリアの表情には一点の曇りもなかった。


 対して、レオナルドの顔は黒雲漂う空のように暗かった。


「ジュリア、君は……なんてことをしてくれたんだ!」


 兄の追及は凍てつく氷柱つららのようであった。


「レオ兄様? なんでそんな目であたしを見るの? あたしは良いことをしたのに」


「僕と君のお父様の命を奪うことがかい?」


 敢えて妹を「君」と呼んだレオナルド。今も自分に抱きつこうとする妹に対するささやかな拒絶が見て取れる。


「ええ、そうよ。あのふしだらな男が支配する限り、ここに住む人は幸せになれないわ。だから、あの男を……汚らわしい俗物に罰を与えてやったのです。神に代わって!」


「まさか、北の門が開いたのも――」


「あたしがやりました。お父様を嫌う人は市内にたくさんいましたもの。その人たちに城門の衛兵を襲わせたの。これで全てが上手くいくと思っていましたわ。でも」


 そこまで言いかけて、ジュリアは街道沿いに面した地域で続けられている戦闘の方に目をやり、小さく溜息を吐いた。


「思い通りにはいきませんでしたわ。敵は思った以上に狂暴みたい――」


 あまりにも身勝手な行動に、さすがのレオナルドも業を煮やした。彼は感情に任せて右手を振り上げる。だが、そんな兄を見てもジュリアは動じるどころか恍惚こうこつの表情を浮かべている。


「レオ兄様。あたしは抵抗しませんわ。ぶつのならいくらでもぶってください。ジュリアはレオ兄様になら、どんな乱暴をされても構いません。さあ」


 ジュリアの世界に必要なのはただ一人。最愛の兄だけ。


 それ以外はどうなろうと知ったことではない。


 兄になら何をされようとも、例えそれが自らを辱めるような所行でも拒むことなく受け入れられる。


 妹は、骨の髄まで狂人になってしまっていた。


「ジュリア、僕はもう君の気持ちについてはいけないよ」


とレオナルドは冷たく言い放った。ここまで強い拒絶など経験したことのないジュリアは諦めきれずにまだ縋ろうとする。


「なんで? レオ兄様だってお父様は大嫌いだったでしょうに」


「ああ、僕だって父さんのことは許せなかった。君に……とても父親とは思えないことをしたんだ。許せるはずがない」


「だったらなんで――」


「でも、だからって父さんを、それも敵に攻められている最中に殺すだなんて、ただいたずらに人々を混乱させるだけじゃないか!」


「なら、どうするつもりだったのですか? この戦でお父様が勝ったら、あの人の支配は終わらないのですよ。そんなの、あたしには耐えられません。そうなるぐらいなら、レオ兄様にここを治めてもらいたいとあたしは思って――」


「嘘だ!」


 レオナルドの一喝。全身をこわばらせるジュリア。


「そこまで考えて君が動いたとは思えない。口から出まかせだって僕には分かる。本当は……僕に拒絶されたから父さんや住民に八つ当たりしただけじゃないのか? どうなんだ、ジュリア!」


 気まずい空気が兄妹を包む。


 互いが鋭い言葉を相手に突き出し、双方は見えない心の傷に苦しんでいた。


 もしこの状態がもう少し続けば、どちらかが相手の首を絞めていたかもしれない。


 ヒヒーンと馬のいななく声がした。


 それが愛馬のものと知ったレオナルドは防具無しでまたがり、馬に発進の合図を出す。


「ジュリア。君は僕を手放したくはないんだろうけど、僕は死ぬかもしれないと分かっていても人々のために戦いたいんだ……父さんがいない今、指揮を執れるのは僕しかいないんだから」


 そう言い残して、レオナルドはラエミリアの中央広場へと馬を走らせた。背後で泣き叫ぶ声がしても振り向かずに。


「レオ……兄……様」


 一人取り残されたジュリアが悲痛な叫びを上げる。


 その後で、一組の男と彼女の前に姿を現した。


「こんばんは。お坊ちゃん、それともお嬢さんかな?」


「あら? こいつは女よ。傭兵隊長さん。全然可愛くない奴けどねえ」


 ゲラルドとかつて自分が騙したイザベラであった。

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