父への報復

「ジュリア……。なぜ?」


 八年ぶりに父の自室に入るジュリア。音も立てずに姿を現す様子はまるで幽霊。


「お父様。あたし、分かったんです」


 ジュリアはコツコツとブーツを鳴らしながら、父に目を向けたまま歩み寄る。


「あたし、本当はお父様の思いに正面から答えたかったのです。でも、あの時の――五歳の私にはそれが良く分からなくて。ただ怖くて、お父様を拒絶するばかりで。それがお気に召さなかったのでしょう?」


 ジュリアの告白を聞き、ジョバンニはゆっくりと口を開いた。


「正直に話すよ。ジュリア。あの時の私はどうかしていた。妻――レオナルドの母とお前の母を同時に失った私は正気の沙汰ではなかったのだ。


 それに私の行いが発端で首都の人々にも多大な迷惑をかけたこともあったから、その……。泣きじゃくって私にしがみついて離れないお前に、あんなひどいことを……ひどいことをしたと思っとる」


 ジョバンニは弱い男であった。彼はオッタヴィアーノ公爵のように図太く、図々しい態度を貫けるような根からの悪漢ではない。搾取と圧政で民を苦しめ、屋敷や自分を豪華に飾ることはしなかった。


 だが、彼の天性のプライドの高さは如何ともしがたく、それが己の過ちを認められない傲慢さへと繋がり、引いては周囲の人々に災いをもたらす「不幸の種」となってしまった。


 ジョバンニは石畳の床を見つめるばかりであった。娘に会わせる顔などない、と言いたげに。


 そんな父を見たジュリアは自らの手で、彼の顔を自分に向けさせる。


「お父様。今日、あたしは私のお母様の服装で来ました。もっとしっかりと見てください。これであたしが紛れもない、あなたの娘だと認めてくれるでしょ?」


 そう言うと、ジュリアはかつて母が着ていた服を強調するようにくるりと一回転。ただし、その下半身は女性のものではなく男物のタイツ。ラティニカ半島内では一般的な衣服ではあるが、それを女性が着用することはまずない。


 そんな物をジョバンニは今は亡き愛人に着せていた。それはつまり……の持ち主であるということである。


「ありがとう、ジュリア。今のお前は、本当にお前のお母様に瓜二つだよ」


「うふふ。ありがとうございます。あたしももうすぐお母様と同じ年になりますから、自然とお母様に似てきたのかも」


 年齢相応の愛らしい笑顔で父を抱きしめるジュリア。


 父ジョバンニは娘への警戒を解いた。それを見計らって、ジュリアはこう持ちかける。


「ねえ、お父様。悪い奴がお父様の国を攻めているのでしょう?」


「そうなんだ。ジュリア。今も城壁の向こうを皇帝陛下の軍が囲んでいる。だが、私は希望を捨ててはいない」


「本当ですか? あたしは外から野蛮な男の人の声が聞こえてくるので、地下にいても怖くてたまりませんわ」


 父の気丈な振る舞いに、ジュリアは恐怖におののく乙女のように泣いてみせる。そうすれば、父が必ずや自分に寄り添ってくると推測しての行動であった。


 ジョバンニは彼女を抱き寄せると、こう励ました。


「安心なさい、ジュリア。西から援軍がやってくる。彼らと示し合わせて包囲中の敵を攻めるつもりだ。それについさっき山の中腹に火の手が見えた。西からの援軍だよ。だから、もうすぐ包囲も解かれる。ほら、もう寝なさい。ジュリア。今日は地下室じゃなくて、私の執務室の隣にあるベッドを使っていいから」


 良いことを聞けた、とジュリアは内心で悪い笑みを作る。ここまでは計算通り。だけど、父が援軍を呼んでいたことまでは想定外。彼らの到着が果たされれば、自分は復讐を遂げられなくなろう。


 そう、愛する兄以外の、首都ラエミリアに住まう人々に災いをもたらすという血生臭い復讐を。


「お父様。私は早く寝たいので――」


 自分を抱いたままの父を引き離すと、ジュリアは小さな丸テーブルに置かれたままのワインボトルを手に取り、


「一緒に飲みませんか?」


と提案した。父ジョバンニがそれを承知する。


 ジュリアは二つのカップにワインを注いでいく。


「ねえ、お父様」


「なんだね?」


「レオ兄様は今どちらに? 最近見かけなかったもので、少し心配なのです」


 娘に尋ねられて、父は書類に目を通す。その隙を突き、ジュリアは父に渡す方のカップに何やらを入れて、さじでかき混ぜ始めた。


「えーと、レオナルドなら城壁の見張りで、今日は……南門付近に立っているよ」


「そうなのですね。後で会いに行ってみます」


「これ、あそこは女が立っていい場所ではない。やめなさい」


 ジュリアは「はあい」とあざとく返事をしてみせてから、カップを一つ父に手渡した。粉を入れたカップの方を。


「では、お父様。乾杯」


「乾杯」


 二人はワインを飲んだ。いや、正確には娘は飲むふりをしてカップをあまり傾けず、父は一気に飲み干した。やがて、ジュリアの様子を不審に思ったジョバンニは、


「おい、ジュリア。どうした? 一緒に飲ま――」


 刹那。ジョバンニは苦しみに襲われた。


 視界の歪み、耳鳴り、筋肉の弛緩しかんが続く。そして、気が付くと彼の目は右手に床を、左手に細い足が見える形になった。そこで自分が座椅子から倒れたことを知る。


「お父様がいけないのです」


 やがて細く美しい足を持つジュリアが、父ジョバンニの顔を見下ろす姿勢を取る。彼女の目に宿っているのは、侮蔑と殺意。


「あたしの体を汚しておいて、何喰わぬ顔でのうのうと生きてきたのですから。あたしが本当にあなたを許すと思いましたか? ……馬鹿な人。下衆な男!」


 吐き捨てるように言ったジュリア。彼女の言葉はまるで体を鋭く射抜く矢のように、父ジョバンニの全身に突き刺さる。


「そう……か」


 薄れゆく意識の中、ジョバンニは娘の姿をかつての愛妾のものと錯覚する。それは偶然か。それとも、ジュリアが父をさらに傷つけるための策であったのか。


 ジョバンニは、ジュリアの足を掴んだところで事切れた。


「さようなら。あたしのお母様には会えないでしょうから、どうか地獄で待っていてください」


 ジュリアは去っていった。トラウマを植え付けられた場には一秒でも長く留まっていたくはなかったから。だが、彼女は知らなかった。


 兄に手渡されたハンカチを、父の執務室に落としてしまったことを。

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