咲いてはならぬ禁忌の花

 時は遡り一週間前。


 エミリア侯国の首都ラエミリアの住民は、いつもと変わらぬ日常を送っていた。


『皇帝派の都市に住まう我々が、皇帝の雇い入れた傭兵団の攻撃など受けるはずがない』


 そう考えていた彼らにとって、北部の戦争というものは他人事のように思えていたのである。


「ベアトリーチェ……」


 楽観的な空気が市内に漂う中、レオナルドの姿は屋敷内のアトリエにあった。彼は椅子に座りつつ今ここにはいない最愛の人の顔を頭に思い描いていた。


 透き通った白肌。


 糸のように細くもそこにピンとした強さを併せ持つ金髪。


 物憂さをたたえた碧眼へきがん


 綺麗な鼻に柔らかな唇。


 ベアトリーチェの横顔を思い描くと、レオナルドは木炭を手に取った。白い画板にデッサンを開始する。


 バルコニーで見せた公爵夫人の横顔を。


 頭の頂点から胸元まで正確に、寸分の狂いも見いだせないように。


「よし。次は」


 レオナルドはアトリエ内にある数種類の顔料と卵を持ち出すと、複数のパレットにまず顔料を注いでそこに卵の黄身を溶き入れる。絵具を手にしたレオナルドは一心不乱に、一気呵成かせいに、絵に命を吹き込んでいった。


 画板と睨めっこをすること約三時間。


 二次元の空間に「生きた公爵夫人」の横顔が現出した。


 レオナルドの思いが画板に生命を吹き込んだ瞬間であった。


「きれいだ。でも、本物の君の方が」


「こんにちは、レオ兄様」


 不意に声をかけられて肩をビクンと震わせるレオナルド。彼は描くことに熱中するあまり、すぐ傍にまで妹のジュリアが忍び寄っていたことに気付けなかった。


「ジュリア? 昼に来るなんて珍しいじゃないか」


「うふふ、そうかしら」


 地下室暮らしのジュリアが動くのは基本的に夜中であった。人目に付きにくく、また父ジョバンニに出くわすリスクが少ないことを考慮してのことであったが、この時はまだ陽が出ている時間帯に兄の元を訪れていた。


「この女性はどなた? 綺麗な方ね」


「え? ああ、そう言ってくれて嬉しいよ。ジュリ――」


「ねえ、この人はどなたなの? 答えてよ、レオ兄様」


 態度を豹変させるジュリア。


「ジュ、ジュリア!?」


 兄より一回りは小さいはずのジュリアが、瞬く間に兄を床に押し倒してしまう。かたかたとパレットが床を鳴らし、渇き切っていない絵具がぶちまけられる。しかし、ジュリアはそんなことなど意にも介さない。


「ジュリア、今日は一段と怖い眼つきだよ、どうしたんだい?」


「その訳はレオ兄様が描いた女性にあるの」


 どこか不気味な笑顔を作るジュリア。十三歳の少女には似つかわしくない、一見すると可愛く見えるが、その奥には消し去れぬ憎悪を燃やす黒のまなこがレオナルドを射抜く。


 底知れぬ恐怖が彼を包んだ。


「ベアトリーチェさんのことかい? この人はミディオラの公爵夫人で――」


「そして、私が愛するレオ兄様を、あたしから奪おうとする女騎士、でしょ?」


 兄の言葉を逐一先回りするジュリア。急に語尾が可愛くなり、首を軽く左に傾げて兄にアピールする彼女はだが、レオナルドにまたがったままの態勢を崩さない。


「私からレオ兄様を、世界で一番レオ兄様を愛しているあたしから奪おうとする狡猾こうかつな女。


 ベアトリーチェはそんな女。


 ねえ、レオ兄様? どうしてあたしじゃなくて、こんな男みたいな女の方を選ぶの? ねえ? ねえ?」


 ジュリアの暴走は止まらない。彼女はそれまでの人生――物心ついた頃から八年という長い歳月の中で長らくふたをしていた欲望を残らず吐き出していく。


「レオ兄様は、なんであたしだけを見てくださらないの? 


 あたしをあの男――から救ってくださった時のこと、あたしは今でも忘れられないわ。


 だって、お父様はあたしの服を剥いで、それから」


「ジュリア。これ以上は何も――」


「いいえ、できないわ! 忘れられるはずがないもの。レオ兄様も見たでしょう。あの下衆があたしに何をしたか……」


 押し黙るジュリア。そんな妹に何も声をかけられずにいるレオナルド。そう、あの時の光景は見るもおぞましく、そして忘れがたき暴挙。


「あの時、レオ兄様が助けてくださらなかったら、あたしは死ぬつもりでたの。でも、あなたが……レオ兄様がいてくれたから、あたしは今日まで生きてこれた!」


「ジュリア……」


「そ、それに」


 これまで饒舌に話していたジュリアは、ここで初めて言葉を濁す素振りを見せる。何か言いにくそうな言葉を兄に告げるのを躊躇ちゅうちょするように。


 すると、レオナルドは上体を起こして妹を優しく抱擁する。


「ジュリア。君が僕に何を求めているか。お兄ちゃんが知らないとでも思ったのかい?」


「れ、レオ兄様……」


 耳まで真っ赤にするジュリア。その顔は恥じらい一色。禁じられた愛が花を咲かすものと考えた十三歳の少女は、これまでの人生で受けた仕打ちが全てはこの後に訪れる濃密な関係が展開されるための試練だと思った。


 そう、これまでの理不尽も兄との愛を試すための試練で、遂に神様が例外をお認めになったのだと思い込んでいた。


 だが、兄の告白は残酷であった。


「僕は『妹』として君を愛してる。でも、それ以上の関係にはなれない。ジュリア、僕は君の『兄』でしかいられないんだ」


 ジュリアのガラスのような心に埋めようのない傷が加えられた。


「どうして……」


 自分たちは腹違いの兄妹。男と女にはなれない。


「ねえ、どうして」


 夢破れた少女による二度目の呟き。そこで思い出されたのは、今までしてきた努力の数々。


 兄に色目を使う者には死なない程度の毒で苦しめてきた。


 それでも諦めない者にはより強い毒で愛を壊そうとした。


 それさえも駄目ならば、兄に毒を盛ることで「行為」をさせないように邪魔してやった。


 そう、兄と体を重ねていいのは世界でただ一人。妹である自分だけ。


 たとえそれが、兄との政略結婚が決められたイザベラとかいう女であろうとも!


 そして、自分よりも兄に愛されようとしているベアトリーチェとかいう女も、兄には絶対に触れさせない!


「こんなもの!」


 ジュリアは立ち上がると、先ほど描き上げた兄の作品に、ぶちまけられた絵具を塗りたくっていった。己の手に付けて混ぜ合わされたそれは黒に変わり、作品を台無しにする。


 おそらく彼女の心の色も同様であったに違いない。


 もはやジュリアの心にはどんな色も混ざりはしない。混ざってもそれは濁りきった色で黒みは消えず明るくなりもしない。


「ジュリア、僕を恨んでもらっていい。でも、この気持ちは一生変わらないし、変えてはいけないんだ……。さあ、今日は僕が部屋まで送るから早めに戻ろう」


 レオナルドは妹をおんぶしながらアトリエを後にした。


 一人きりにしておけば、彼女は自ら命を絶つかもしれない。


 それ程までに憔悴しょうすいしていたジュリアを、彼は兄として放っておけるはずがなかった。


 その日の彼は地下室で妹に付きっきりとなり、就寝時間となるまで片時も離れなかった。

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