公爵夫人、駆ける
広場には民衆がひしめき合っていた。
彼らは演壇に立つ三人の男たちに鋭い目を向け続けている。
「立ち去れ! 俺はジュリアーノ様に感謝してるんだ!」
「いや、ミディナ家に支配されるのは御免だ!」
やがて、貴族の男がおもむろに壇上に立った。
「ミディナ家の横暴を許すな!」
彼の名はジョルジョ。香水をプンプンさせるこの男は、居並ぶ人々に現在フロレンスを統治するジュリアーノへの
「十年前だ。父がミディナ家の手で絞首刑に処されたのは。あの時のことを今でも私は忘れられない。ジュリアーノの兄サルヴェストロは父の短剣で命を奪われた。
あの時、私は死んでもいいと思っていた。
『後は人々が私たちの行いを称賛し、都市を良いものに造り変えてくれるだろう』
と信じていたからだ。
人殺しは大罪。事を仕遂げた後まで生きることを神はお許しにならない。
だから、諸君が死刑を宣告するなら甘んじて受け入れようと決めていた。
だがどうだ? 諸君は我々をほめそやすどころか『国家の敵』と断定し、その多くを処刑した!
これが不当と言わずして何と言えばよい? 銀行業で財を成し、金利で利益を
ここでジョルジョは一呼吸置いた。長すぎる語りは人々の頭に残らないと分かっていたから。そして自分に注がれる目線から、己の主張に人々が心を動かされていることを確認してから続ける。
「あれから十年。諸君の暮らし向きは変わったか? むしろ貧しくなったのではないか。
貧民窟を見ろ。そこに暮らす人々は貧困から脱することができておらず、都市の無料配給に頼りきりだ。
神は『貧しい者には進んで施しなさい』とお教えになられたのに、この状況は一体全体どこに問題がある?」
「執政官殿にだ!」
ジョルジョの言葉に一人の男が声を上げる。彼は没落貴族で都市の保守派に属しており、中下層民の支持を受けるミディナ家に反発していた。
「そんなことはさせねえ!」
「んだと!」
すると今度はジョルジョの言葉が火種となり、両派による暴力沙汰が発生する。
ベアトリーチェはそんな彼らの姿を目の当たりにして、一抹の不安を抱く。
(子どもたちは?)
ベアトリーチェの心配は貧民窟の子どもたちへと向けられた。
中央広場は一触即発の事態になろうとしている。彼らの行動を押しとどめる力は今の自分にはない。自分はあくまで人質でつい先ほどまでは罪人。そんな自分の言葉に力などあろうはずもない。
「ベアトリーチェさん、あなたは主人の邸宅に。ここは私が何とか」
エヴァはそう言って、ベアトリーチェにジュリアーノの家へと向かうよう指示する。しかし、
「そんなこと、私にはできません」
ベアトリーチェは拒んだ。フロレンスで起こっている出来事が他人事とは思えなかったから。
「エヴァ様、私は子どもたちが心配なんです。行かせてください!」
ベアトリーチェの決意が固いと悟ったエヴァは、彼女を自分の言いつけ通りに動かすことを断念すると、公爵夫人を人目に付かない路地裏に招いた。
「あなたはやっぱり私が憧れたマチルダ女王みたいね」
エヴァは笑顔を作った。その目に宿っていたは羨望と希望であった。
「え?」
「ここに嫁いだ時、私は書庫で女王に関する本を読んだことがあるの。今のあなたは、その本に書かれている彼女にそっくり。向こう見ずで、行動的で、弱い人たちのために一生懸命で……。あなたならこの都市を救ってくれるかもしれないわね」
「エヴァ様……」
「本当はね、主人は悔いているの。あなたを牢に入れたこと。でも、あの人は心配性で、市内の間諜から知らされた情報を間に受けてしまったみたいなの。だから」
「その情報を疑わずに、私を収監したんですか?」
「そう。それが罠とも知らずに」
「罠?」
「主人を排除した後で『安全な場所にいる公爵夫人』を救出して、あなたを神輿にする計画のための罠よ。だって、革命の首謀者たちがトップに立とうとしても、市内の人々のほとんどは主人を支持しているんですもの。
少数の貴族や主人を憎んでいる人々が支持しても、彼らに敵意が向くのは間違いない。だからマチルダ女王に
ベアトリーチェは自分の振る舞いがジュリアーノを悩ませたのみならず、市内の不穏分子が自分に利用価値があると思っていたことに愕然とした。飾らないで生きたことが、今度は周囲を巻き込む危険な事態を招いた。
自然、彼女の顔も暗いものとなる。
「あら、そんな顔で子どもたちに会うの? いつもの笑みはどこに捨てちゃったの?」
「……」
「主人には私から言っておきます。貧民窟に行きなさい。あなたを愛する人たちのために」
こう語り終えた時、エヴァの元に人々が押し寄せてきた。ジュリアーノの妻を捕縛したい連中とそれを阻止したい人々の攻防が始まろうとしていたのである。
ベアトリーチェはそれが起こる寸前に現場を去った。
幸いにも彼女が奪った甲冑が顔を上手く隠してくれたおかげで、公爵夫人の脱出が気付かれることはなかった。
(エヴァ様。ありがとうございます!)
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