公爵夫人の収監、執政官のトラウマ

 翌日のことである。


 ベアトリーチェは、ジュリアーノの邸宅の一室で目を覚ますと鏡台へと向かった。


「寝ぐせがすごい……」


 公爵夫人がくしを化粧台から取り出すと髪のセットに取り掛かる。故郷の宮廷にいた頃はどんなことでも女中がやってくれたが、今では自分一人でやらなければならない。


 だが、そっちの方が都合が良かった。髪型を自分で決められるのだから。


「今日『も』ストレートね!」


 ベアトリーチェが宮廷では出来なかったストレートヘアを作り上げていく。彼女はゴテゴテした装飾品まみれの髪型やウェーブのかかった髪型が嫌だったのである。


「ジュリアーノです」


 ノックの音とともに聞こえた邸宅の主人の声がした。


「お入りください」


 ベアトリーチェは迷うことなく、入室を許可する。


「ベアトリーチェさん。話があります」


「何でしょうか?」


 ジュリアーノが公爵夫人に告げた。


「塔に入ってほしいのです」


 ガーターを装着する手を止めるベアトリーチェ。「塔」という単語には良いイメージがない。そこに連れていかれるということは……。


「まさか、私を罪人として扱うのですか?」


「そうなりますね」


 ジュリアーノが冷たく言い放つ。


 ベアトリーチェは、先日まで自分に親しく接してくれていた男に猜疑さいぎの目を向けた。


「私にどんな嫌疑が?」


「外患誘致の疑いです。連れていけ」


 執政官コンスレ命令で待機していた警備兵が二人で室内に足を踏み入れると、ベアトリーチェに近づいていく。


「ジュリアーノ様、私は何も企んではいません!」


 公爵夫人が連行されていくのを見つめるジュリアーノ。その顔にはどこか釈然としないといった気持ちが見てとれた……。


 ◇


 ベアトリーチェはフロレンスの中心地カテドラルにある塔の最上階――地上から三十m地点に位置する牢に投げ込まれた。


「痛い!」


 尻もちをつくベアトリーチェ。そこに顔を見せたジュリアーノの顔には一切の柔和さはなかった。今まで彼女に見せてきた温和さも感じられない。


「ベアトリーチェ・ド・ロレニア。あなたには失望しましたよ」


 ジュリアーノは冷酷な政治家としての顔を覗かせつつ、ベアトリーチェに詰め寄る。


「市内にいる反体制派と懇意にしていたそうじゃないか。貧民窟に頻繁に出入りしていたのは、そういう意図があったのですね」


 ベアトリーチェは首を横に振る。


「何かの間違いです!」


「いや、違わない。私は市内に間諜を放ち情報を収集していたのです。彼らの情報に嘘はないはず。父の代から付き合いのある人々を間諜にしていますからね。彼らが私を裏切るはずがない」


「だから、誤解です……」


 力なく反論するベアトリーチェ。それを見下ろすジュリアーノは左右に警備兵を従える。


 ところで、彼はどうして公爵夫人に過酷な措置を下すのであろうか。



 発端は十年前に発生した陰謀事件にあった。


 ジュリアーノが生まれたミディナ家は銀行業を営んできた一族であり、フロレンスの貴族たちの力を削ぎながら権勢を握ってきた。


 そして遂に、共和制を是とするフロレンスにおいてミディナ家は単独支配体制の確立に成功した。今から約六十年前の出来事。


 この仕打ちに怒ったフロレンスの貴族たちは、外部勢力と手を結んでミディナ家の単独支配を終わらせることを画策。法皇マルティヌスも加わり、フロレンスで計画を実行する運びとなった。


 尚、法皇が加担したのにはフロレンス領内南部にある都市リヴォリアナが関係している。


 リヴォリアナは半島で唯一の絹産業で栄えていた都市である。王侯貴族が欲しがる絹製の衣服を生産する都市を法皇は欲しがった。彼は「私欲が僧服を着ている」と揶揄やゆされる程に贅沢に余念がない男であったから。


 その際限ない欲望を満たすために、法皇は当時フロレンスを支配していたミディナ家の当主サルヴェストロ――ジュリアーノの兄にリヴォリアナの購入を申し出た。


 だが、サルヴェストロは法皇の申し出を断った。


 リヴォリアナの絹は国家の重要な財源であり、それを譲り渡すことは国家歳入の大幅減に繋がるからであった。


 己の申し出が拒まれたのを知るとマルティヌス法皇は、


「銀行家風情がわしに歯向かいおって!」


と怒り狂ってフロレンス貴族と合流した。


 そして、計画は実行に移された。


 ジュリアーノにとって思い出したくもない、おびたただしい血が流された惨劇の一日が幕を開けた。


 市内で行われた凶行。


 刺客がナイフを抜き襲いかかってくる。


 自分を庇うために全身をめった刺しにされた兄サルヴェストロ。


 兄の体からとめどなく流れる血。


 致命傷を逃れた後も高鳴り続ける自分の心臓。


 首謀者たちが人々にミディナ家への決起を促す声は今も耳に焼き付いている。


 だがしかし、人々は貴族と法皇に味方をしなかった。


 彼らは負傷したジュリアーノを保護しただけでなく、市内の貴族たちを殺害もしくは追放し、その後に起こった法皇国との戦争にも進んで加わり、祖国とミディナ家を守り抜いたのである。



 フロレンス市民が『リヴォリアナ戦争』と称した戦役は、彼らには誇り高い出来事ではあったが、ジュリアーノにとってはトラウマとなっていた。


 法皇が我が一族とフロレンス市民に深い恨みを抱いている。


 ジュリアーノはそう考えずにはいられなかった。


 そして現在は半島北部で戦火が広がりつつあり、半島中部にも火の粉が降りかかるのも時間の問題だとも考えていた。


 この機を法皇や亡命貴族たちが利用しない訳がない。


 ましてや、かつてである。公爵夫人をそれになぞらえて担がないとも限らない。


 そんな恐怖がベアトリーチェの収監に繋がった。


「待って……聞いてください……」


 ジュリアーノは十年前のトラウマを彼女に語ることなく、その場を後にするのであった。

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