第五章 フロレンス、革命に見舞われる

悲劇の上演とうごめく陰謀

 フロレンスの住民はいつもと変わらぬ日常を送っていた。


「ベアトリーチェ姉ちゃん。劇が見たい!」


「いいわね、一緒に行きましょう」


「あ、ずるい! あたしがベアねえの手を握る」


「駄目! あんたは昨日お姉ちゃんの手握ったじゃん。独り占めなーし」


 子どもたちの無邪気な会話。それを聞いて笑顔になりつつも、ベアトリーチェは一抹の不安を感じていた。


(ここは大丈夫かしら?)


 人の往来が噂を届ける。戦火は消えることなく広がり続け、今は西に広がりつつあるとベアトリーチェは耳にしていた。


 自分の嫁ぎ先であるミディオラに軍が進みつつあるという話も。


(あの人が戦いに敗れたら、私は自由に? だったら、ミディオラなんてなくなった方が……。駄目よ! 私ったらなんてことを)


 不謹慎な願望を振り払うベアトリーチェ。


 確かに公爵は憎い。けれど、それはミディオラの人々には何の関係もない。


 個人的な感情で国が滅びればいいと思うのは間違っている。


「お姉ちゃん。ついたから座ろ!」


 そんなことを考えているうちに、ベアトリーチェと子供の一行は中央広場の観劇場に到着した。公爵夫人は最前列の特等席に案内されるが、


「いえ、子供たちと一緒に見たいので」


と断り、子どもたちの座る最後列――貧民窟に住まう者が市の助成金により無料で見られる席に座る旨を劇の司会者に告げた。


 その光景を見つめる者が三名。


「あれが公爵夫人か」


「あの女は民衆の支持を集めているな」


「うむ、使えそうだ」


 何やら不穏なことを話し合っている連中がいることに、ベアトリーチェは気付かない。


 そして、劇が上演される。


 題名は『ピュラモスとティスペー』


 フロレンスでは有名な恋愛悲劇である。


 ある町に高貴な家柄生まれの男と女がいた。彼らは愛しあっていたが、両家の親は対立していて結ばれることはあり得なかった。だが、男女の愛は燃え上がるばかり。


 遂に男は女に告白する。


『何もかも捨てて町を出ていこう。地位や名誉なんかよりも、僕は君が欲しいんだ!』


 男性俳優の演技に会場のボルテージは最高潮に。特に女性陣の歓声は凄まじく、至るところで黄色い声が響く。


「あの男性役者さん、北から来たらしいわね?」


「そうよ! 何でも本番前に本来出演するはずだった人が事故死したから、その代役で雇われたって聞いたわ」


「へえ、そうなんだ。イケメンだわー」


 うっとりする大人の女性たち。身も心もすっかり奪われたかのように、彼女らは男性役者に熱い視線を注ぐ。


(レオナルド。あなたは今何をしているの?)


 一方、ベアトリーチェは観劇中にレオナルドの顔を思い起こす。細かい部分は違うが、公爵夫人は劇に出てくる男女に共通点を見出していた。


 愛し合っていても結ばれることが叶わぬもどかしさ。


 社会的地位が障害になるという理不尽。


 親の都合で踏みにじられる若き男女の愛。


『ピュラモス! どうして死んでしまったの。どうして!』


 そして勘違いの末に男は死に、女は彼の後を追って死を選ぶ。あの世で結ばれたいという一心で。



 劇が終わると、会場は割れんばかりの拍手をする者と悲劇的な最期を迎えた男女に涙を流す者に二分される。前者は市内の有力貴族の男たち、後者は政略結婚に苦しめられた女性たちであった。


「劇終わったねー」


 幼い子供たちに恋愛悲劇は理解できなかったようだが、それでも嬉しそうであった。彼らはベアトリーチェと一緒の時間を過ごすのが目的であったわけだから。


「ねえお姉ちゃ――どうしたの?」


 ベアトリーチェは涙を流していた。彼女は劇に出てくる女性ティスペーに感情移入し、己も同様の運命を辿るのではないかと思うと悲しくてならなかった。


 会いたいけど会えない。自分はあくまでも人質。外出は認められない。


 自分に人質としての価値がなければ、私はレオナルドと……。


「お姉ちゃん!」


「え? あ、ごめんね。劇を見てたら悲しくなっちゃって」


 ベアトリーチェは子供たちを不安にさせまいと手で涙を拭い、席を立ちあがって彼らとその場を後にする。


 そんな彼女に注がれる視線が、やはり三つ。


「今がチャンスじゃないか」


 一人は太っていて、いかにも贅沢をしていそうな貴族の男。


「ああ、半島北部は混乱しているし、法皇猊下げいかもフロレンスを今度こそ征服したいと望んでおられる」


 二人目の男は商人。彼は右手で胸ポケットに入れていた手帳を取り出し、そこに何かを書く仕草をする。


「奴等との連絡はついている。後は決行日について細かく打ち合わせよう」


 最後の男は聖職者。神に仕える者がこそこそ話とは何とも怪しい。 


「あとは神輿があれば」


 最初に口を開けた男が後ろ姿のベアトリーチェをチラリ。


「我々がフロレンスを掌握できる!」


 陰謀を巡らす一味はベアトリーチェの確保に動く。そう、彼女には利用価値があった。


 かつて、フロレンスを中心に広大な領地を治めたマチルダ女王に似た公爵夫人を新たな君主として担ぐという、壮大な計画の傀儡としての利用価値が。



 陽が沈み、微かな明かりが灯る夜のこと。


 ジュリアーノの邸宅の一室が明るくなっていた。


 邸宅の主人は机に座って、机上に並べられた複数の書類に目を通していた。


 各国に置かれた銀行の支店からの報告。


 半島北部の戦況の詳細。


 ロレニア、グロウディッツ両大国の動向。


 中でもジュリアーノを悩ませたのは、フロレンスと国境を接する法皇国の不穏な動きであった。


「市内にはもう法皇の息がかかった連中が入り込んでいるか。まずいな」


 ジュリアーノは苦い記憶を思い出した。兄を奪い、フロレンスを戦争に引きずり込んだ大事件の事を。


「兄さん、法皇は十年経っても私たちを許すつもりはないようだ」


 大きな溜息を吐くと、ジュリアーノは全ての書類に目を通そうとした。


 そんな時である。ベアトリーチェに関する情報を目にしたのは。


「ベアトリーチェさん。あなたがまさか……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る