政治的な利用価値

 決闘裁判から数日。ベアトリーチェの足はフロレンス市内の貧民窟ひんみんくつに向いていた。


(もうミディオラには戻らない)


 ベアトリーチェの決意は固かった。彼女の心をかたくなにしたのは、夫オッタヴィアーノの図々しい言葉。


 借金の担保。


 夫オッタヴィアーノは、ジュリアーノから多額の借金をしていた。その額は天文学な数字――国家歳入の一割にまで膨れ上がっていたらしく、とても返済の当てがなかった。ジュリアーノは度々、公爵に充てて借金返済を催促する手紙を送っていたが、その度に返ってくるのは、


『いつか一括で返済する。しばし待たれよ』


という決まり文句。ジュリアーノも堪忍袋の緒が切れて、これ以上の併催猶予はできないと告げると、


「では、妻を人質として送る。もし、返済できないと貴殿が判断した場合には、妻を好きにしてよい」


と書き送ってきたのである。


 ジュリアーノも貸した金は回収しなければならないし、オッタヴィアーノ公爵の提案を拒むのも賢明な策とは言い難かった。ミディオラ公国は、北のロレニア王国――ベアトリーチェの祖国は世界で唯一の常備軍を有する軍事大国である――を相手に優位に立てる程には強かったからである。


 対して、フロレンス共和国には常備軍はおろか軍そのものがなかった。戦争になれば、執政官コンスレ命令で召集令が布告され、ギルドからの徴兵で軍を編成し、戦に臨む形式を採用している。素人の兵士が大国を打ち破ったミディオラ公爵の軍に勝てる見込みがあろうはずがない。


 これらの事情を勘案した末にジュリアーノは渋々オッタヴィアーノの案を受け入れ、ベアトリーチェを共和国の人質として遇することに決めたのである。


 無論このような話し合いが勝手になされたことに、ベアトリーチェが何も思わない訳がなかった。最初こそ呆れ返って夫に憎悪を向けたが、そんな気持ちも時が薄れさせてくれた。


「ベアトリーチェ様。おはようございます!」


「おはよう。歯は磨いた? お風呂には入った?」


「歯は磨いた! でもお風呂はまだー」


「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に入りましょうね」


 貧民窟の子どもたちがベアトリーチェを出迎える。ベアトリーチェも彼らに明るい笑顔で応え、それを見守る子供たちの親も自然と笑顔になる。


 フロレンス市民はベアトリーチェを人質としてではなく、一般市民のように扱ってくれた。決闘裁判の際の彼女の勇猛ぶりも影響していたであろうが、何よりも生来の彼女の明るさが人心を掴んだようである。


 ミディオラでも見せていたように、ベアトリーチェは庶民的な女性である。そんな彼女は人から愛されることはあっても憎まれることはそうなかった。


 他国から来たアイドル。


 ベアトリーチェは束の間ではあったが、愛されることを知ったのである。


「ありがとうございます。公爵夫人様。私たちなんかのために」


「いえ、そこまで卑屈にならないでください。私は嫌々ここに来ているわけではありません。自分の意思でここに来ていますので」


「ど、どうして?」


「神が『困った者には手を差し伸べなさい』と教えておられるからです」


 ベアトリーチェは神聖教の聖書の一節を引用して、子ども達の親に聞かせた。それに子供たちが興味を持ち始める。


「ベアトリーチェ様、文字が読めるんですか」


「読めるわよ。書くこともできるわ」


「じゃあ、今度僕にお勉強を教えてください!」


「あ、俺も俺も。文字を書けるようになって、将来は公証人になりたいんだ!」


「あら、みんな勉強熱心ね。それじゃ後でジュリアーノ様に頼んで教材を調達してもらうわね。待てる?」


「うん!」


 ジュリアーノは約束を守り、ベアトリーチェにある程度の自由を与えていた。彼は公爵夫人を牢に入れたり、軟禁することはしなかった。さすがにフロレンス市外への外出は許可しなかったが、市内であれば自由な行動を許したのである。


 また、ジュリアーノは彼女に監視を付けることもしなかった。決闘裁判の一件でベアトリーチェは有名人となっており、彼女の行動を見張る意味がなかったからである。


 執政官コンスレの寛大な措置。それに賛意を示し、ジュリアーノに一層の支持を表明するフロレンス市民。一見するといいことづくめだがしかし、この時のベアトリーチェは知らなかった。


 市内に彼女を利用したい勢力がうごめいていることを。

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