恋の神アモルの目

 ゲラルドは書庫に到着した。


 扉を開くと手前にはテーブル、奥には本棚とそこに敷き詰められた分厚い本が立てられている。


 彼が埃臭さを感じていると、


「どなたですか?」


 虫の鳴き声のように小さな質問がゲラルドの左側から発せられた。窓から指す陽光が顔を照らして薄い色白の肌に生気をもたらさなければ、その女性は剥製はくせいに見えたであろう。


「コンスタンツァ様ですね?」


 ゲラルドの問いに、十四歳の少女コンスタンツァは頷いてみせた。彼女は先ほどの貴婦人とは異なり、目の前の野性味あふれる男に剥き出しの警戒心を見せて、


「お父様が送った差し金ですか?」


と聞いてきた。どうやら彼を刺客と勘違いしたらしい。


「そうじゃない。あなたは二カ月だけ俺のものになったのです」


 ゲラルドは要件を淡々と告げた。


「嫌です。私は行きません。本を読んでいたいので」


 だが、コンスタンツァは巨石のように動かない。彼女はページをめくる時に動かす手と字を追う目以外はどこも止まったままで、ゲラルドに一瞥いちべつもしなかった。


 そこでゲラルドは、少女が読んでいる書物のタイトルに目をやった。そこに、彼女を動かす糸口を見出す。


「『恋の作法』か。読んだことがある」


「あら、そうですか」


 ゲラルドの言葉に、コンスタンツァは字を追いつつ答える。彼女はページをめくって、次のページに目を移す。


「最初の一節は何だったかな? 教えてくれないか?」


 わざとらしい。本当は知っているのだろう、と思わせるゲラルドの振る舞いであったが、根が優しいコンスタンツァは書物を最初のページまで戻して読んでやった。


「『この世には愛の神がいる。名はアモル。この男神おがみは人々に矢を射かける。射られたものは想い人に激しい愛を告げずにはいられなくなる。これを私たちは愛の矢と呼び、私たちが激しい愛に溺れるのはアモルの力によるものである』……これでよろしい――」


 読み終わると同時に両肩に重みを感じた。ゲラルドの両手が彼女の肩にかかっていた。何事かと案じるコンスタンツァに、ゲラルドが告げた。


「あなたは燃えるような恋がしたいようだ」


 コンスタンツァは肯定も否定もしなかった。ゲラルドは畳みかける。


「俺が燃えるような恋をさせてやる。約束しよう」


「誰が、あなたみたいな野蛮な男性と」


 露骨な嫌悪感を見せ、ゲラルドを拒絶しようとするコンスタンツァ。だがそれは十秒も続かなかった。彼女の頭は熱に浮かされたようになり、体全体が熱くなる感覚がふつふつと沸き上がってきたからである。


 心を射抜く愛の弾丸に、コンスタンツァはいとも簡単に打ち抜かれた。愛の神が放つ矢に射抜かれたかのように、彼女は盲目的な愛に焼かれていく。


「ゲラルド様。どこへなりとわたくしを連れて行ってくださいまし」


 乙女の頬は薄い赤に染まる。一度も恋をしたことがなく、まだ恋の何たるかを知らぬコンスタンツァは、傭兵隊長の力によってを与えられたことに気付かない。


 ゲラルドは自分の力を数えきれない程に使ってきた。田舎娘、宿屋の女将、露店の看板娘、娼館で働く女性……。どこに生き、どんな仕事に従事し、未婚であろうとも既婚者であろうとも、彼は己の欲を満たすために特殊な力を人知れず行使してきた。


 彼は己の目に宿る力を「アモルの目」と名付けていた。


 女性の体に触れ、相手の目を数秒から数十秒見つめ続ける。それで女性はコロリと落ちる。後はゲラルドが好き放題できる。女性からすれば危険な力だが、当のゲラルドはこの力をよこしまな目的で使うことはなくなっていた。


 己の力に気付き、初めこそ女性に力を使いまくったゲラルド。だが、時を経て大人になるにつれ、それが真実の愛ではないことに気付かされる。


 本当の愛がほしい。


 極めて単純な、だが叶えるのは極めて難しい願いを、ゲラルドは抱き続けた。父は飲んだくれで母は心を病んでいた複雑な家庭に生まれた彼には、貪欲なまでの愛への渇望があった。だが未だかつてそれを叶えてくれる存在には出会えていない。傭兵家業で貴族層の女性と顔を会わせる機会が増えてもそれは変わらなかった。


 「ゲラルド様。お顔が暗いですわ。わたくしが元気を差し上げましょうか」


 コンスタンツァはそう言うと彼の頬に口づけする。生まれて初めてのキスがその男の持つ力に後押しされたものと彼女は気付かない。


「コンスタンツァ。一ついいか」


「なんでございましょう。ゲラルド様」


「ベアトリス、という名の女騎士を知ってるか?」


「ベアトリス様……。ベアトリーチェ様のことですか? ミディオラ公爵様に嫁いだ、先代ロレニア王の娘の」


「ミディオラ公爵の婦人か」


 ゲラルドは思案した。


 彼は知っていたのである。雇用主であるフェデリコ帝の金欠ぶりを。


 それを勘案するに、自分が傭兵団を率いてラティニカに侵攻し戦果を挙げようとも高確率で給与の支払い遅延を願い出てくるはず。そうなれば部下の統制も効きにくくなる。ならず者の集団を率いるゲラルドとしては、どうにかして彼らを繋ぎ留めておくための策を講じる必要があった。


(確か、オッタヴィアーノだったか。屋敷に美術品を飾り立てて自分だけは優雅な暮らしをして、下々の者から収奪するって噂の)


 ミディオラ公国の富と公爵夫人にゲラルドは狙いを定めた。一石二鳥が狙えると踏んだのである。


 部下たちは財物に満足し、自分は貴婦人たちが噂している「戦う公爵夫人」を手に入れる。


(ベアトリーチェ。力を使わずに手に入れたい女が現れた!)


 戦場に生き続けたゲラルドは、同じく戦いに身を投じるベアトリーチェに興味をかれたのであった。


 

 二大国が戦争に向けて動いている。


 情報は人づてに伝わり、ラティニカ半島に衝撃を与えた。特に弱小国ばかりの北部小国家群は大慌てで半島中部を治める神聖教法皇に書簡を送り、援助を乞うた。対して、法皇はつれない返事をするばかり。それは法皇個人の事情によるものなのだが……。それは後程明らかになる。


 黒衣団が戦火を拡大し、人々は散り散りとなって逃れていく。その最中、三人の女性――ベアトリーチェ、イザベラ、ジュリアはどう動くのか。


 三人の物語が、本格的に動き出す。

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