貴重な時間
ベアトリーチェの回想が溜息で締められた。彼女は思い知らされた。
自分はどこまでいっても夫オッタヴィアーノの政治的道具であり、見えない
ここ数カ月、ラティニカで開催された馬上槍試合への参加を快く承諾したのだって、結局は己の栄達のためを思って許可したに過ぎない。
自分の決意を尊重したわけではなかった。
それだけならばベアトリーチェも耐えられたであろうが、自身に向けられる目がさらに彼女を傷つけた。
「うっひょー、綺麗だねえ」
「あれが公爵夫人様か? 夜になったらどう鳴くかなあ」
貴族から疎まれるのは覚悟していたが、庶民の男どもから下品な言葉をかけられるのは追い打ちでしかなかった。無論男全員がそうだったわけではないが、人は褒め言葉よりも悪口の方が心に残りやすいもの。
試合中は気丈な振る舞いを見せるベアトリーチェも少しずつ心を病んでいった。
私の居場所はどこにあるの?
誰か居場所をつくってよ!
父の都合で祖国から追い出されたベアトリーチェ。もうどこにも安住の地などないのでは、と諦めかけていた。誰かに囲まれても心は一生孤独なままで過ごすんだ、と思いかけていた。
「ベア。ほら、涙を拭いて」
そんな時である。エミリア侯国でレオナルドに出会ったのは。優しい彼を見たベアトリーチェは一瞬で心を奪われた。
「ありがとう。レオ」
お礼を述べつつ、ベアトリーチェはハンカチを受け取ると頬を
妻となったベアトリーチェ。
結婚を控えるレオナルド。
どうあっても結ばれないことは二人とも分かり切っていた。
それでも……。
レオナルドはバルコニーの手すりに両手を置き、嘆息するばかりのベアトリーチェに顔を向けると、
「きっとどこかで、いつの日か僕らは結ばれるさ」
「いつ? どこで?」
くしゃくしゃな顔で「今すぐにでも結ばれたい」と懇願するベアトリーチェに、レオナルドは静かに答えた。
「死後の世界とか……かな」
「え?」
「知らないの? ラティニカでは有名な話なんだけどね。
『ある都市で仲の悪い二つの家があった。両家の当主は互いに徒党を組み、市内での抗争に明け暮れていた。
そんなある日、両家の若い男と女が恋に落ち、二人は駆け落ち同然に遠くに逃れたけれど、最後は勘違いの末に愛し合った男女は死んで結ばれる』
ってお話さ」
「何それ。すごく悲しい」
「そうだね。でも、この話の結末って色々あるんだ。例えば」
「レオ。もういいよ」
ベアトリーチェが強引に
私は死後ではなくて、現世であなたと結ばれたい。
今すぐにでも初恋の相手になったあなたと。
叶わぬ恋に、ベアトリーチェは心を焼き尽くさん勢いであった。この世でただ一人、自分を対等に、自分を女として認めてくれる存在に出会えたのである。若い彼女には運命の出会いに思えて仕方なかった。
それが叶わないなら、私はもういっそ「男」みたいに雄々しく生きるしかない。
思いつめた顔をするベアトリーチェ。そんな彼女の顔は不意に横に向けられた。レオナルドの手で、彼のいる方に。
唇に押し当てられる柔らかな感触。
それはレオナルドの人差し指。
これ以上は何も言わないで、という意味だったのかもしれない。
けれど、ベアトリーチェには残念でならなかった。
別のものを押し当ててほしかったから。
指ではなくて、あなたの柔らかな唇を力強く……。
そんな気持ちが彼にも伝わったのであろう。
「ベア。これ以上のことは僕にはできないんだ。さようなら」
ベアトリーチェを愛称で呼んでから会話を打ち切ると、二階のバルコニーからはレオナルドの姿は消えてしまった。
ほんの数分の貴重な時間は終わった。
己の不運を嘆くばかりの公爵夫人をバルコニーに残したままで。
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