十三話 冷たい風 前編


 歴奈は、ドラゴと並んで休憩所のベンチに座っていた。


 正面の体育館の壁に沿って自動販売機が二台設置されている。ベンチのすぐ後ろは中央棟校舎の壁だ。二つの壁に挟まれたスペースが休憩所になっている。


 少し風が長く吹いた。風の通り道になっているのかもしれない。


 吹き付ける風を冷たく感じた。それでも、膝の上で握った二つの手には汗が滲んでいる。


 一緒に座ってから数十秒、ドラゴは無言のまま前を見つめている。


 歴奈は耐え難い沈黙のプレッシャーの中で、右方向の渡り廊下に何度か視線を送っていた。誰かに来て欲しいと願ってはいるものの、今のところ人が通る気配はない。


 ときどき反対の左方向にも視線を送った。上履きで移動できるコンクリート床が中央棟の端あたりまで続いている。その向こうに砂利道があるが、やはり無人だった。さらに先の斜面を下るとグラウンドだが、木立に遮られてよく見えない。


 グラウンドや体育館から、運動部の掛け声だけは聞こえてくる。


「黒歴史の意味が、隠したくなるような恥ずかしい過去のことだというのは知ってる?」


 不意にドラゴが沈黙を破った。慌ててドラゴを見たが、顔は前に向けられたままだった。


「あ、はい」


 歴奈は少し遅れて返事をした。黒歴史の意味が言われた通りなのは分かっている。


「今日のこと、秘密にしてほしい」


 本題に入ったからなのか、ドラゴの眠そうな声に威圧的とも取れる響きがこもった。


 瞼の上がりきっていない目の近くの眉間には、皺が寄っている。


「もちろんです。あの部が黒歴史研究部だということは、誰にも言いませんから――」


「それは別に言ってもいい」


「え?」


 このまま帰らせて欲しいと言いかけたのを、予想外の言葉で遮られた。


「私たちが黒歴史研究部なのは、別に秘密というわけじゃない」


「そうなんですか?」


「ネットへの情報のアップは、面倒なことになりそうだから控えてぐらいに頼んではいるけど。潮乃音の生徒の中では、知る人ぞ知るくらいの知名度」


「割と知っている人がいるということですか?」


「ときどき相談者が来るくらいには」


 黒歴史研究部の存在は、歴奈が思っていたよりもずっとオープンらしい。


「秘密にして欲しいと言ったのは、さっき部室に来た子のこと」


 黒歴史研究部の被害者と思しき、あの幽霊のような女子生徒のことだ。


「彼女は赤石先輩みたいに自分の黒歴史に折り合いをつけることはできていない。深刻に悩んでいる最中で、その黒歴史のことを周りに知られてしまうのをとても怖がっている」


 ドラゴが歴奈の方を向いた。


「だからお願い。彼女のことは秘密にして」


 ドラゴが切実な様子で訴えてきた。表情や声から眠そうな気配が完全に消えている。


「誰にも言いません。もちろんネットに書いたりもしません」


 ドラゴの勢いに押されながら、歴奈は承諾の返事をした。


「それに彼女に接触して、黒歴史のことを根掘り葉掘り聞いたりするのも止めて欲しい」


「分かりました。大丈夫です。会ったとしてもむやみに話し掛けたりしません」


「良かった。まずは一安心」


 ドラゴの声と表情が眠そうなものに戻り、歴奈の緊張も少し緩んだ。


 冷静に思い返してみれば、ドラゴや夜宵のあの女子生徒への接し方には思いやっている様子が感じられた。あの女子生徒も、二人を頼ってやってきたようだった。


 そしてあの女子生徒は随分と思いつめた様子だった。彼女の悩みの正体、黒歴史の内容が気にならないと言えば噓になるが、詮索すべきでないことは充分に理解できる。


 その前に会った赤石もドラゴに礼を言っていた。しかもあの黒歴史簿に書かれていた通り、力を入れているチア部に向かったようだった。黒歴史簿の内容にも歪曲はなさそうだ。


 歴史研究部が黒歴史研究部だった事実に動転して、色々と誤解をしていたらしい。


「黒歴史の相談者同士の鉢合わせが起こらないようには、以前から気を付けていた」


 ドラゴが視線を前に戻して言った。


「入口には鍵を掛けるし、覗けないようカーテンも閉める」


 そういえば土曜に部室に行ったときもそうで、夜宵は部室に戻るときにも鍵を掛け直していた。もしかすると何か相談を受けている最中だったのかもしれない。


 入口にさえ気を付ければ、ベランダから覗かれる心配は無さそうだ。校舎の外から見た限り、ベランダは階段の部分で途切れていて、他の部屋とは繋がっていないようだった。


「でも歴奈は普通の歴史研究部の見学で来てくれたから、そうはしていなかった」


「すみません」


「歴奈は何も悪くない。彼女が今日来る予定ではなかったにしても、私たちの油断が原因」


 ドラゴがそう言った後で、軽く息を吐いた。


「ウチの部がヘンな部だと分かってしまって、歴奈はがっかりした?」


 ドラゴが、なんとなく寂しそうな表情で歴奈を見ていた。


「まあ、少しは」


 正直なところ、がっかりするどころか恐怖を覚えていた。


「でも黒歴史研究部は、人の黒歴史を暴露して笑い者にしたり、弱みに付け込んだりする部というわけではないんですよね?」


「間違ってもそんなことはしない。黒歴史研究部は、黒歴史で悩んでいる人を助けるために活動をしている。相談で聞いた黒歴史のことは絶対に秘密。プライバシーの保護も厳守」


 相談に来る者に対する配慮は、想像以上にしっかりとしているようだ。


 恐怖に駆られていたときとは違う意味で、黒歴史研究部のことが気になってきた。

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