第四話 龍の子
四月八日。月曜。
昼休みになっている。
文華は土曜日に言っていた通り、歴奈と二人でお弁当を食べてくれた。そして食事が済むと、文庫本を持って教室を出て行った。今日の読書は中庭でするつもりらしい。
歴奈の席は一番後ろの列で左端の窓際だ。教室全体が見渡せる。
部活体験期間の開始日だけあって、部活の話をしているクラスメイトが多いようだ。
歴奈の右隣の席の男子などは、待ちきれないといった様子で卓球のラケットの点検をしている。その男子と、少しだけ部活の話をした。
放課後になると、隣の男子は張り切った様子で部活に向かったようだった。
部活を楽しみにしているのは歴奈も同じだ。文華と一緒に一年A組の教室を後にした。
渡り廊下への出口に向かって歩いていると、廊下の少し先の階段から上級生たちが下りてきた。上級生だと分かるのは、教室棟のフロアが学年別にきれいに分かれているからだ。
歴奈たち一年は一階、二年は二階、そして三年は三階。教室棟も中央棟と同じく四階まであるが、少子化の影響か生徒数が減少し、今では三階までしか使われていないらしい。
階段の前を通り過ぎて掲示板の前に差し掛かった。ポスターや色々な用紙が張られているが、これまで意識して見たことはない。
「これ、歴史研究部が作ったんじゃない? 発行、歴史研究部って書いてあるわよ」
文華が足を止めて言った。その視線の先に新聞紙片面ほどの大きな掲示物がある。見出しは『歴史研究新聞』となっており、名前の通り新聞のようなデザインだった。
「こういうのを作る活動をするのね。歴ちゃんも好きな三国志がテーマよ」
ちらりと見て嬉しいことが分かった。歴史研究部には歴奈と同じ三国志好きがいるようで、しかもそれが女子ということだ。大黒とは別の女子だ。
『伏見龍子』
歴史研究新聞の記者名に、そう書かれていた。凛々しい名前だと思った。
「入部したくなったらじっくり見てみるよ。行こう」
文華と二人で渡り廊下への出口まで進んだ。昇降口もすぐそこに見えている。
「じゃあ見学、行ってみるね。ちょっと緊張しちゃうけど」
「大抵の部は歓迎してくれるはずよ。大丈夫、大丈夫。部活の様子、聞かせてね」
文華を見送って一人になると、少し心細くなった。
だが大黒から、今日なら見学は大丈夫だと言ってもらっている。三国志好きの女子がいるらしいという期待もある。そう思って渡り廊下に出た。
右手の体育館の二つの出入口の扉が今は開いているようだ。体育館はバスケットコート二面分の広さがあり、扉はそれぞれのコートの真ん中あたりの位置だ。
歩きながら一つ目の出入口を覗いた。
二人の男子が折りたたんだ状態の卓球台を運んでおり、キャスターの転がる音が響いている。こちらのコートは卓球部の練習スペースらしい。今は準備中で、まだその二人しかいないようだ。隣の席の男子も見当たらなかった。更衣室で着替え中なのかもしれない。
二つ目の出入口では興味を引かれて足を止めた。向こう側のゴール近くで、バスケ部らしき二人が対戦中だったからだ。歴奈は出入口の端に立ってその二人に注目した。
奥側、歴奈から遠い方にいる男子は赤い服装をしている。赤いノースリーブの上着と大きめのハーフパンツは、いかにもバスケの練習着といった感じだ。赤。
手前側、背を向けている方の男子は灰色のスポーツウェア姿だった。トップス、ボトムスともに七分丈で、肘、膝の少し先あたりまでが灰色に覆われている。灰色。
壇上側のコートにいるのも、今は赤と灰色の男子二人だけだ。
対戦が仕切り直され、灰色がバスケットボールをバウンドさせ始めた。赤を抜き去って、後ろのゴールにシュートを決めようとしているようだ。
ボールのバウンド音やシューズと床の擦れる音が、体育館の外のここにまで届いている。
灰色は今も背中を向けていて顔はほとんど見えない。トップスのフードの上の襟足は少し刈り上げられているが、髪の上側は丸くボリューム感がある。その髪が、体の動きに合わせて大きく揺れる。そして体の動きが落ち着くと、少し遅れてきれいにまとまる。
灰色は、赤が伸ばしてくる腕を巧みに躱しながらバスケットボールをキープしている。
歴奈は、いつのまにか灰色の後ろ姿に惹きつけられていた。
勝負が動いた。
灰色が腰を低く沈めると、赤が近づいた。赤の手がボールに届いたと思った瞬間、灰色は右手のボールを自分の足の間でバンドさせ、体の後ろに構えている左手に移した。
灰色は若干体勢を崩した赤の左側をすり抜けて、ゴールに向かって勢いよく加速した。
跳んだ。躍動感に溢れた、宙を舞うような跳躍力だった。
灰色の手を離れることなく、ボールがゴールへと叩き込まれた。そして灰色はふわりと着地して、バウンドしているボールをキャッチした。
歴奈は、興奮で体が少し熱くなっていることに気付いた。ダンクシュートを生で見るのが初めてだったということもあるが、それ以上に、灰色の動きに目を奪われていた。
赤が灰色に近づいて、少しうなだれた後で手を高く上げた。小さくパチンという音が聞こえた。灰色が赤に応えてハイタッチをした音だ。
灰色の横顔が見えている。ツーブロックのイケメンの男子だ。赤と何かを話しているが遠くて聞こえない。もう少し近くで見てみたい、声も聞いてみたいと思った。
不意に、灰色が赤から離れてドリブルを始めた。加速している。速い。
灰色が、真っすぐ歴奈に向かって来ていることに気付いた。猛スピードで数メートルの距離に迫ったところで、こちらに向かって跳んできた。
歴奈は思わず小さく悲鳴を上げ、出入口の陰に隠れた。
バウンド音と着地音が聞こえた。おそるおそる顔を出して覗いてみると、灰色がボールを拾っていた。まるで歴奈に向かって飛び掛かってきたように見えたが、出入口側のゴールにシュートを決めただけだったようだ。歴奈は胸を撫でおろした。
灰色は歴奈に背を向けると、片手で軽々とボールを投げた。ボールは弧を描いて飛んで行って、反対側のゴール近くの赤にキャッチされた。かなりの飛距離ではないか。それでも余力のある投げ方に感じた。狙いも正確だ。
灰色が赤と手を上げ合った後でこちらに振り向いた。歴奈に気付いたようだ。
「もしかして、さっき何か言った?」
歴奈は首を横に振った。誤解で悲鳴を上げたなどと言いたくはない。
「ちょっと待ってて。荷物がそこにあるから」
灰色の声は思いのほか高いが、物静かな美声だと思った。
出入口の死角に姿を消していた灰色が、大きなスポーツバッグを肩に掛けて現れた。
灰色は体育館の外に出ると、出入口脇の靴箱に入れてあった上履きに足を通した。
「お待たせ」
灰色と一緒に体育館から少し離れて、渡り廊下で向かい合った。
歴奈は緊張と同時に、顏が火照るのを感じた。イケメン男子の灰色が目の前にいる。
「動いた後は少し暑い」
灰色がスポーツバッグの肩掛けを少し浮かせ、首元のファスナーを一気に引き下ろした。
歴奈は唖然とした。
シャツ越しに見える灰色の体型が、明らかに女性のものだったからだ。
襟足を刈り上げた髪型や高身長から美青年と間違えていたが、灰色は男子ではなく女子だった。男子にしては高いと思った声も、女子の中ではやや低めなくらいだ。
改めて灰色の女子を見た。
身長は確実に170センチを超えていて頭身も高い。
七分丈のスポーツウェアからは、長い手足の先が覗いている。だが、四肢も体幹も決して華奢ではない。均整の取れた魅力的なスタイルをしている。そして全身に、芯の通ったような力強さとしなやかさの両方が備わっているように見えた。
顔に注目した。髪型と眉は凛々しい印象だが、まつ毛の奥の切れ長の目、形のいい薄い唇などは女性的だ。彫の深い大人びた顔立ちの美女と言って差し支えないだろう。
クールな印象を受けた。なんとなく眠そうにも見える。瞼の上がり切っていない目つきのためだろうか。
「潮乃音のバスケ部は男子だけで、女子の部は無い。残念?」
「あ、いえ。通りすがりに見させてもらっただけで、バスケ部に入るつもりは。あの、さっきの対戦は?」
「部活に行こうとしたところでバスケ部の友達に捉まって、ちょっとだけやった」
灰色の女子はバスケ部ではないらしいが、見事な動きだった。男子のバスケ部員に勝ってゴールを決めている。
「ダンクシュート、凄かったです」
「身長は174あるし、バスケは中学で三年やっていたから。それに人数の少ない男子バスケ部の頼みで紅白戦とかを結構手伝っていて、あまり勘は鈍ってない」
灰色の女子が本格的にバスケをやっていたのは中学時代らしい。それでも現役の高校の男子バスケ部にも引けをとらず、練習の手伝いを頼まれるほどのようだ。
だがそれよりも、灰色の女子が眠そうな声でしゃべっていることが気になっていた。
口調もどこか投げやりで、歴奈の相手をしているのが面倒だという印象を受ける。ずっと同じ話し方だ。表情も眠そうなままで全く笑わない。歴奈は、少し焦りを感じた。
「表情かおとしゃべり方は普段からこう。気にしないで」
灰色の女子が眠そうな顔つきと声のまま言った。本当にこれが普通なのだろうか。
「あの、先輩ですよね?」
「二年」
どう接するべきか迷って訊ねてみたが、やはり上級生だった。失礼が無いよう気を付けなければならない。歴奈が新一年生であることは、雰囲気や真新しい制服で明白だろう。
「先輩は、バスケ部とは別の運動部に所属されているんですか?」
「放課後はいつもスポーツウェアに着替えるけど、私は文化部」
絶対に運動部だと思っていたが、灰色の女子は意外にも文化部だった。
「歴史研究部っていう部で一応副部長をやってる。歴史研究新聞って見たことない? 今掲示板に張ってあるのは、私が書いたもの」
全く予想していなかったことを言われて、心底驚いた。
「もし興味が持てそうなら読んでみて」
「あ、はい。さっき張ってあるのに気が付きました。今度じっくり読ませください」
灰色の女子がうなずいた。
「あの、実は私、歴史研究部へ見学に行かせていただこうしていたところなんです」
灰色の女子の眠そうに見える目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
「もしかして先週来てくれた、小倉歴奈さん?」
「はい、そうです」
「夜宵――、部長から聞いてる。部室まで一緒に行こう」
「よろしくお願いします」
歴奈は灰色の女子に頭を下げた。いや、名前は分かっている。『伏見龍子』だ。
「あの、『フシミ リュウコ』先輩ですよね? 歴史研究新聞で見て、格好いいお名前だって思っていました」
「ありがとう。下の名前の読み方は違うけど」
「あっ、失礼しました。『タツコ』先輩でしたか?」
伏見が首を横に振った。だが、他の読み方は思いつかなかった。
「あれ、『ドラゴ』って読むの」
眠そうな表情のまま眠そうな声で、『伏見ドラゴ』が呟いた。
「――ド、」
一瞬遅れて『ドラゴ』と言い掛けたところで喉につかえ、むせて咳き込んでしまった。
「大丈夫?」
伏見に背中をさすられながら、歴奈は涙ぐんでいた。
キラキラネームが増えている現在でも、『龍子』と書いて『ドラゴ』と読むのはかなり珍しいだろう。それでも人の名前を聞いて動揺して咳き込むなど、最悪に失礼だ。
入部するかもしれない歴史研究部の副部長の歴奈に対する印象は、マイナスからのスタートとなってしまった。そう思うと咳が収まっても、伏見の顔を直視できなかった。
「私の名前を聞くとみんな最初は驚く。気にしなくていい」
意外にも優しく囁かれて伏見を見た。表情も少し緩んでいるように見える。
「ドラゴという名前を、自分では気に入っている。龍のように強い子に育って欲しいという願いを込めて、両親がつけてくれた名前だから」
それなら普通にリュウコ読みの方がいい気がするが、歴奈がとやかく言うことではない。
それにドラゴという響きも、クールな印象の伏見に似合っている気がしてきた。
「ドラゴっていうお名前、やっぱり格好いいです」
「嬉しい」
言葉とは裏腹に、伏見の口調と表情は眠そうなものに戻っていた。
「部室、行こうか」
「はい」
二人で横に並んで、中央棟に向かって歩き出した。
歩調が合っていることに気付いた。伏見のほうが歩幅はずっと広く、俊敏でスピードも速いはずなのに、歴奈にさりげなく合わせてくれているようだ。
伏見が優しい先輩であることが、なんとなく伝わってきた。
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