第一話 黒の似合う人
四月六日。土曜。
歴奈が階段を上り切ると、正面の開いている窓から海が見えた。
無人の廊下を横切って窓に近づき、下枠に手を置いて外を眺めた。
この中央棟校舎の最上階四階からは、防風林の向こうの景色も見渡せるようだ。
港町と言われることの多いここ
軽河湾の海面は、日の光を照らして輝いている。
その向こう岸の遠い陸地が、青白いシルエットのようにうっすらと見えていることに気付いた。
不意に、針で刺されたように胸が痛んだ。
中学生の頃にも、この学校に近い砂浜から軽河湾を眺めた。
今となっては切ない思い出だ。それでも毎日のように脳裏をよぎる。
心に風穴が空いた記憶や、嫌で仕方がなかったあの頃の自分のことも――。
頭を振ってそれを遠ざけようとした。できることなら思い出したくない。
気分を変えようとして自分の服装のことを考えた。
着ている潮乃音高校指定のセーラー服はおろしたてだ。セーラー襟も白いデザインでスカーフはつけない。下は黒いスカートだ。セーラー服の上だけは白黒の二種類から自由に選べるが、大半の女子生徒は歴奈と同じ白にしているようだった。
右肩を動かしてネイビーのスクールバッグの位置を整えつつ、窓から離れた。
ここに来たのは景色を眺めるためではない。目的は、歴史研究部の下見だ。
先ほど配られた部活動に関するプリントには、部活名とそれぞれの活動場所と活動日の一覧、それにキリトリ線で区切られた入部届が印刷されていた。
プリントを配ったクラス担任の先生からは、来週から部活体験期間が始まること、体験期間が終わると入部を締め切る部もあること、入部届は各部ではなく担任の自分に提出することなどの説明を受けていた。それに部活紹介の集会の類は無いことも聞かされた。
歴奈は以前から歴史研究部への入部を検討しているが、具体的にどんな活動をするのか、まだ分かっていない。プリントにも、各部の活動内容は特に記載されていなかった。
しかも他の部と違って、歴史研究部の活動日の欄は空欄になっていた。
もしかすると土曜日が活動日かもしれないと思って様子を見に来たところだ。
正午を回ったくらいの時間だが、すでに放課後だ。午前だけの授業も帰りのホームルームも終わっている。活動日なら、おそらく部室に人がいるだろう。
歴史研究部の活動場所は、ここ中央棟四階の専用部室とプリントに書かれていた。
中央棟は全校生徒の教室がある教室棟とは別の校舎だ。一階に職員室、保健室、図書室などがあり、上の階は特別教室や文化部の専用部室として使われているらしい。
廊下を見渡した。階段から見て左側に廊下は伸びている。歴奈以外には誰もいない。
窓側に部屋はなく、階段側にだけ部室が並んでいる。各部屋には廊下に突き出す角度でプレートが設置されており、映画部、書道部などの文字で部室だと分かる。
階段の右側に視線を移すと、すぐ先の突き当たりに一つだけ部屋があった。
引き戸上枠部に貼られた白地のプレートに、歴史研究部という横向き印刷の黒い文字が見える。探していた歴史研究部の部室は、思ったより近くにあったようだ。
近くまで行ってみた。引き戸は閉じられている。左側の戸にだけ四角い窓があるが、内側にカーテンが掛けられていて中は見えない。今日は外から眺めるだけのつもりだったので少し迷ったが、一応、呼び掛けてみることにした。
深呼吸をして、窓側の左の戸をノックしてみた。少し待ったが反応はない。戸に手を掛けみても、鍵が掛かっていて動かない。今日は休みで誰もいないようだ。
窓の向こうのカーテンが微かに揺れたようにも見えたが、気のせいだろう。
無駄足だった。引き戸の前に立ったまま、そう思った。
それだけではない。窓から景色を眺めたことで、あの頃のことを思い出してしまった。
歴奈は、また嫌な記憶が頭の中に広がっていくのを感じていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
その記憶に囚われていたために、すぐには気付かなかった。
目の前に、女子生徒が現れていたことに。
ガラス窓を挟んではいても、かなり近い距離に顔がある。
女子生徒が歴奈のことを見つめている。
決して威圧的な睨みつけるような視線ではないのに、なぜか怖い。
心の底に秘めたあのことさえも、女子生徒の瞳に映ってしまっているのではないか。
もしかしたら、その黒い瞳に吸い込まれてしまうのではないか。
怖さと同時に、どこか幻想的な感覚が歴奈を満たしていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
女子生徒の表情がふっとほころび、歴奈は我に返った。
鍵を外す音がした。女子生徒が出てこようとしていることに気付いて、歴奈は何歩か後退した。左側の戸が半分ほどスライドして女子生徒が出てきた。
女子生徒はすぐに引き戸を閉めて、それから歴奈の前に立った。
黒の似合う人だった。
膝下まで丈のある、黒いロングカーディガンを羽織っている。
前は閉じられていないため、黒いセーラー服が見えていた。
スカートの色が黒なのは上着と違って固定だからだが、裾からすらりと伸びている足も黒いニーハイソックスに覆われている。
さらには上履きまで黒かった。布地部分まで黒い上履きは初めて見る。
髪も黒く艶やかだ。髪型は前下がりのボブカットだった。
そして、長いまつ毛の奥の大きな黒い瞳は、改めて見ても吸い込まれるような美しさだ。
ミステリアスな空気を纏った、見とれてしまうような美人。
世間的には高校生は美人ではなく美少女と言うのだろうが、歴奈より大人びて見える。
平均身長の歴奈より背も少しだが高く、162、3センチくらいか。体型はやや細身だ。
ほぼ全身が黒で覆われているが、優しそうな微笑のためか暗い印象は受けない。
「あなたは、……歴史の相談者かしら?」
女子生徒に訊ねられた。妙に気になる問い掛けだった。
だが一部が聞き取れなかったためか、意味がよく分からなかった。
歴史研究部では歴史の疑問に関する質問などを受け付けていて、質問にやって来る人のことを『歴史の相談者』と呼んでいるのだろうか。
「いえ、あの。私は歴史が好きで、歴史研究部を見学させていただけたらと。お邪魔にならないように、ちょっと見させて頂くだけでいいのですが」
「あら、ごめんなさい」
女子生徒は右手で口元を押さえた後で、再び笑顔を見せた。
「歴史研究部の部長、二年の
女子生徒――、大黒の声は澄んでいた。そして、ゆったりとした優しげな口調だった。
「あなたのお名前は?」
「は、はい。申し遅れました。
歴奈は緊張しながら名乗った。
「ちょっと珍しい名前ね。どういう字なの?」
「えっと、歴史の歴に奈良の奈です。両親も歴史好きで、歴という字を入れたかったらしくて。それに女の子っぽくするために奈を付けて歴奈にしたそうです」
歴奈が歴史を好きになったのも、両親の影響を受けてのことだった。
「なるほど。素敵な名前ね」
大黒は目を細めて、納得したようにうなずいた。
「ありがとうございます。あの、夜宵というお名前も素敵です」
大黒の魅力的な笑顔に照れつつも、歴奈は小さな声で言った。
夜、そして夜の始まりと言う意味の宵で夜宵。
黒の似合う、どこか謎めいた雰囲気の大黒にぴったりの名前だと思った。
「ありがとう。それで、見学のことなのだけど」
大黒は一度、歴史研究部の部室の方に顔を向けた。
「来てもらったのに申し訳ないけど、今日は立て込んでいてね。ちょっと無理なの」
「そんな。悪いのはこっちです。部活体験期間の前なのに来てしまって」
「気にしないで。でも、また来週に来てもらっていい? 月曜日なら大丈夫かな」
「あ、はい。そのときは、よろしくお願いします」
「うん。待ってる。失礼するね」
大黒は部室に入って引き戸を閉めた。鍵も掛け直したようだ。それから窓の内側から歴奈に向かって手を振ると、カーテンの奥に消えた。
大黒が見えなくなっても、歴奈はカーテンの掛かった窓を見ながら呆然としていた。
あの窓越しに見つめられたときの全てを見透かされたような感覚は、一体何だったのだろう。現実だったのだろうか。大黒との出会い自体が幻だったような気もしてくる。
ふと、大黒から最初に言われた言葉が耳に蘇った。
『あなたは、……歴史の相談者かしら?』
大黒は実際に言ったはずだ。だからこそ、一部が聞き取れないということが起こった。
そういえば、あの問い掛けの意味は分からないままだ。
それは引っかかるが、とにかく、大黒と会話を交わしたことは間違いない。
現実感が戻って来るにつれて、不安が込み上げてきた。
鍵を掛けてカーテンで中を見えないようにしている。少しだけと前置きした見学も断られた。閉鎖的な部なのだろうか。いや、それどころか美人の大黒は、ぱっとしない歴奈に失望して追い返したということは無いだろうか。
ネガティブになりかけたが、なんとかその思考に歯止めをかけた。
来週、月曜日に来るように言ってもらえたのだ。歴奈の名前にも興味を持ってくれた。
邪険に扱われたはずはないと自分に言い聞かせ、歴史研究部の部室に背を向けた。
階段に向かおうとしたが、他の部室のプレートが目に入ったときに違和感を覚えた。
振り返って歴史研究部のプレートを再度見てみると、部名の文字の左端に、黒く塗りつぶされた四角が印刷されていることに気付いた。他の部のプレートには無いものだ。
その黒い四角のことが、なぜか、やけに気になった。
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