雨降り懍ちゃんその2

増田朋美

雨降り懍ちゃんその2

その日はやたら雨が降って、どこかの街では避難指示が出たとかで、テレビでは大騒ぎになっている日であった。そんなわけで、今日は出かけたくても出かけられないかと、蘭は考えていて、今日はネットスーパーとか、そういうものでご飯を頼むかと、蘭は思っていたのであるが、いきなり玄関のインターフォンが音を立てて鳴ったので、蘭はびっくりする。いつも五回連続して鳴らす杉ちゃんの鳴らし方ではないのも、また気になるところだった。

「はい、どちら様ですか?」

蘭が、雨がふりつける玄関のドアに向かって言うと、

「蘭、ちょっと相談があるんだけどね。すごい雨だけど、今日しか、ピアノ教室が休みの日がないのでこさせてもらった。入らせてくれるかい?」

と、聞き覚えのある声がした。蘭が一生懸命誰の声だっただろうかと、考えていると、

「あの、大雨のときにすみません、蘭さん。実はちょっと、ある女性のことで悩んでいることがありますので、相談にこさせていただきました。」

今度はまた別の人間の声がした。それは誰かと思っていたが、蘭はとりあえず大雨なので、どうぞお入りくださいというと、

「それでは、お邪魔させていただきます。」

という声がして、玄関のドアがあいた。そこにいたのは、ずぶ濡れの雨コートを着た影浦千代吉先生と、蘭が小学生のときにクラスメイトであった、マーシーこと高野正志だった。

「ど、どうしたの!影浦先生まで!」

蘭が驚いてそう言うと、

「はい。その影浦です。実は、ちょっと、ご相談というか、蘭さんの意見をお伺いしたいと思いまして、ここにこさせていただきました。上がらせていただきますよ。」

と、影浦先生とマーシーは、そういって蘭の家の中に入った。そして、びしょ濡れになったコートを脱いで、椅子に座った。

「どうしたんですか?なにかありましたか?」

蘭はお茶を出しながら、そう言うと、

「ええ。何かなければ、こんな雨の中、来たりしないよ、蘭。」

と、マーシーは顔を拭きながら言った。

「実はですね、蘭さん。あの、梶本常子さんという女性をご存知ありませんか?彼女の背中に、燕の入れ墨がありましたので、もしかしたら蘭さんが彫ったのかと思い、こさせて頂いたわけです。もしかしたら、ご存じないかと思いまして。」

影浦先生はそう話を切り出した。

「梶本常子、、、あ、ああ、あの、結婚することになったということで、僕のところに来た女性ですね!」

と蘭がそう言うと、マーシーも、影浦先生も顔を見合わせた。

「その梶本常子さんがどうしたのですか?今頃は、幸せな結婚をして、幸せに暮らしているんだろうなと思いましたが、、、。」

蘭がそう言うが、

「彼女は僕の患者なんです。今年の4月から、入院されていて、ただいま治療をしております。しかし、難航しておりましてね。もちろん、薬を飲めば落ち着くことはできますが、切れるとすぐに戻ってしまう。なので、ちょっと彼女の主張の裏を取りたいと思いまして、それで蘭さんにお願いに来たのです。僕の方から、いくつか質問をさせていただきますが、それに、差支えのない程度で良いですから、教えていただきたいのです。」

と、影浦先生は状況を説明した。

「でも、でも何でマーシーが?」

蘭がそう言うと、

「蘭さんならご存知だと思ったのですが、彼女、今年の1月から、高野さんのピアノ教室に通われています。子供の頃に習っていたピアノをもう一度やりたいということで、また通い始めたそうです。それで僕は、まず高野さんにお話を聞こうと思いましたが、詳しい話は蘭さんのほうが知っていると高野さんが言いますので、それで高野さんに一緒に来てもらいました。」

と、影浦先生は言った。つまり相方と言うことだ。まあ確かに、一人で調べるより、二人で調べるほうが、効率は良いだろう。

「わかりました。何なりと、質問をしてください。ただ僕も彼女の全部を知り尽くしているというわけではありませんので、それはご了承ください。しかし、彼女は、そんなに精神状態が悪化したのでしょうか?僕のところに来たときは、もう自分を傷つけるようなことはしないと、明るく楽しそうに話していましたが。」

蘭がそう言うと影浦先生は、

「ええ、口では誰でもそういうことが言えるんですが、口と心は別です。人が意識として感じ取っているのは全体の思考の一割しかないそうです。残りは、本人でもわからないものが、人間を動かしているということですよ。だから、口でいくら誓いの言葉を立てても、そのとおりに行動できない人がどんなに多いことか。」

と言ったのだった。それを聞いて蘭は、改めて自分の力の無さを思った。刺青を入れに来てくれるお客さんたちは、自分の生い立ちを語ることがある。親に虐待されたのでその傷跡を消したいとか、自分でリストカットをやめられないので、それを消したい、あるいは、自分のコンプレックスになっている体の痣を、別の色で消してほしい、など、蘭のところへやってくる客は大体そのパターンである。それを蘭が、龍や朱雀などを入れてやることのよって消してやると、彼女たちは、二度とリストカットはしませんなどと、選手宣誓するような感じで、誓いを立ててくれる。蘭は、刺青師として、それが一番うれしい瞬間だと思うのであった。その誓いを立てる女性たちの顔を見て、口と心は別なんてそんなこと言えるはずがないと蘭は思うのであるが、違うのだろうか?

「今彼女は保護室に収監されています。外へ出すと自傷してしまうおそれがありますので、そこに入れているのです。彼女には、看護師を待機させて、なにかあったら、すぐに止められるようにしています。」

「そんな!梶本常子さんが、そこまで悪化したのですか!だって僕のところに刺青を入れに来たときは、もう好きな人と結婚するので、もうリストカットをしなくてもいいように、また夫婦円満の願いを込めて、燕を入れたいとおっしゃっていましたが、、、。」

蘭はすぐに言ったが、マーシーがそれを止めた。

「蘭、人は変わっていくものだよ。人生は諸行無常と言うじゃないか。人なんて、誓いの言葉も、3日も持てば上出来さ。」

「でも、結婚は、したんだろ?それなのに何で?」

「蘭は何も知らないんだな。僕は、ピアノのレッスンで彼女によく話を聞いたよ。なんでも、うるさいお姑さんが、いつまで経っても子供ができないことに腹を立てて、口うるさく言うんだそうだ。もともと体も弱かったからしょうがないと、ご主人がかばってくれるそうで、家を出るという気はそうそうないと言うことだそうだが、でも、辛かったと思うよ。」

マーシーがそういうことを言ったので、蘭は、驚きを隠せなかった。

「それで、今年の2月に、やっと子供が授かったそうですが、結果は流産されたそうで、そこからおかしくなってしまい、お母様に対して包丁を振り回すなどの奇行に走り始めたそうです。ときには、ご主人とお姑さんの前で首を切ってやると宣言したこともありましたので、それで、僕の病院に収監されたんですよ。」

影浦先生がそう言うので蘭は、自分の力の無さを改めて感じたのだった。それでは背中に燕の入れ墨を入れても何も意味がなかったということだ。

「症状としては、統合失調症に区分されるんだと思います。彼女は、お母様が子供を産めと脅迫してくるんだという幻聴もあります。看護師が、お母様はそんなことは言っていないといくら注意しても、改めようとはしません。きっと傷ついたことを何度も思い出してしまっているんだと思いますが、本人には確かに聞こえているのでしょう。お母様も、彼女がそうなってしまってからは、もう子供は無理だと諦めてくれていますが、彼女のその猜疑心は、多分取れることはないと思いますよ。」

「そうですか。人間というのは本当に弱いもので。もう少し、助け合って生活すると言うところがあれば、もうちょっと楽になれると思うのですが、それはいけないのかなあ。」

蘭が思わずいうと、

「ええ。以前、旧人が滅んだのは、集団で防衛に当たることができなかったためだと言う、人類学者の講演を聞いたことがありました。それは旧人なので思いつかなかったということもあると思いますが、でも、今の我々は、個別主義に再び傾きつつあると思うので、人ごとではないと思うんですがね。」

影浦先生は、医者らしく言った。

「そうですか。だからこそ、三人よれば文殊の知恵という言葉もあるのに、、、。人間は、不思議なもので、他人に助けを求めようとしないんですね。」

蘭は、がっかりした顔で言った。

「まあそうだね。それよりも、彼女の治療を考えましょう。今我々に課されていることは、彼女を、パラレルワールドからこちらへ戻してあげることですよね。それで、僕たちは、彼女が、思っていることをすぐに口にしてしまうことや、スポーツが極端にできないところから、なにかまた別の特性があるのかなと思っています。蘭さんのところに来たときも、そのような態度を取らなかったか。それをお伺いしたいのですがね。どうでしょう?」

影浦先生に言われて蘭はどうしようと思った。そんなこと、覚えていない。確かに、この人はちょっと違うなと言う人も中にはくるが、そういう人は、必ず覚えているはずである。でも、蘭は、梶本常子さんが、そういうことがあるんだということは思い出せなかった。

「すみません。何も覚えてないんです。」

蘭はそれだけいう。

「そうですか、本当にありませんでしたか?例えば蘭さんがなにか質問をしたとき、終わる前にすぐに答えを言ってしまったり、やたらおしゃべりで、相手が質問を切り出す間がないなど、どんな小さなことでも結構です。なにか教えていただきたいんですよ。」

と、影浦先生は言った。

「あの、梶本常子さんのご家族、ご主人やお母様は?」

「ええ、その人達に聞けたら、天にも昇る気持ちですね。その人達に聞くと、梶本常子さんが激怒するので、僕らは彼らからお話を聞くことができないんですよね。」

「家族は、一番近くて遠い存在だと、蘭もわかっているじゃないか。ご家族に言われたことよりも、他人に言われたことのほうが、速く頭に入るってことは蘭も知っているだろう?」

影浦先生とマーシーに言われて蘭は余計にがっかりしてしまう。

「それで、梶本常子さんの知能を調べるとか、そういうことをやるのですか?」

蘭はそうきくと、

「ええ。そういうことですね。心理テストとかは色々ありますので、症状が落ち着いてきたら、ロールシャッハ・テストとか、やってもらおうと思っていますよ。それが、梶本常子さんへの治療ということですからね。」

と、影浦先生は答えた。

「そうですか。それは、常子さんが、障害者であるということを、知らせるということですか?」

蘭がもう一度聞くと、

「はい。それはしなければならないよ、蘭。君だって、歩けないから車椅子に乗って移動するでしょう。それと同じことで、彼女も精神状態が安定するように、薬を飲んだり、いろんなセラピー受けたりすることをしてもらうんだ。」

と、マーシーが答えた。

「ええ、それがうまく彼女が受け入れてくれればいいんですけどね。彼女は、本当に、お母様に脅迫されていると思い込んでいて、僕たちの話を聞いてくれないんですよ。だからまず初めに、僕たちのことを信じてもらうことから始めないといけません。まるで、ライオンに仲間だと思ってもらいたい、動物学者のような感じですね。」

影浦先生は、苦笑いを浮かべていった。

「そうそう。それが病気であるってことがわからないというか、本当にそうなっていると思いこんでしまうんですね。現実は違うんだとわかってもらうことが大事なんですよね。まあ、それができるようになるには、まだまだ時間がかかるかなあ?」

それと同時に、影浦先生のスマートフォンがなった。

「はい、影浦です。はい。ああそうですか。わかりました。そういうことなら、引き続き、彼女のそばにいてやってください。彼女が、なにか話したい態度を取ったら、彼女の話を親身になって聞いてやってくださいね。決して、それは間違いとか、そんなセリフを言ってはいけません。それでは、すぐに戻りますから。では、よろしくお願いします。」

「なにかあったんですか?」

と、蘭が聞くと、

「ええ。梶本常子さんをお昼食のために食堂へ出したところ、周りの人の話に反抗して、ご飯を外へぶちまけたそうです。」

と影浦は帰り支度を始めた。

「そんなこと、本当にしてしまうのでしょうか?」

蘭が思わず聞いてみると、

「蘭さん、人間は本当に弱い存在だとおっしゃいましたね。そのとおりなんですよ。」

影浦先生は雨コートを着た。

「それじゃあ、もう一度きくが、蘭が梶本常子さんと話をしたときは、変なふうに喋りすぎたり、人の話を遮って自分の話をするなどの言動はなかったわけだね?」

マーシーがもう一度聞くと、蘭は、

「それはなかったと思う。もし、そういう態度を取っている人がいたら、いつまでも覚えているはずだから。」

と、言ったのであった。影浦先生とマーシーは、ありがとうございましたと言って、蘭の家を出ていった。蘭は、なんだか自分の力の無さを、あらためて知らされたような気がした。

それから、蘭はたまにマーシーに電話やラインなどをして、梶本常子さんの様子を聞くようにした。多分、精神がおかしくなってしまって、家族や周りの人に見捨てられてしまっている梶本常子さんは、ひどい孤独感を感じているに違いないから、蘭は、自分は彼女の味方であることを知らせたかった。マーシーも、蘭の質問にいつも答えてくれたのであるが、全く回復することはない様子だった。彼女はいつまで経っても、子供ができないので、死んでしまえと姑から脅迫されていると、主張するのをやめないのだそうだ。蘭は、梶本常子さんを見舞いに行こうと思ったこともあったが、あいにく親族ではないためだめだと断られてしまった。もし、力付くで、医療関係や、そういうところに連れて行くことができるんだったらどんなにいいだろう。また、心も、臓器と同様誰かからもらうことができたなら、いいのになあと思ってしまう蘭だった。

そうこうしているうちに、6月も終わりに近づいた。ということは、梶本常子さんは病院からでなければならない。基本的に今の法律では、患者を3ヶ月以上病院に閉じ込めてしまうことはできないことになっている。昔は、10年とか20年とか、それくらい病院に閉じ込められている患者さんは珍しくなかったが、今はそうではない。でも、家族のもとに帰ったらまた不安定な状態に戻ってしまうのではないかと、蘭は心配した。

そこで蘭は、一人で製鉄所に行ってみた。せめて昼間の間だけ、この施設で預かってもらえれば、もう少し、梶本常子さんも、安定するのではないかと思ったからである。製鉄所と言っても、鉄を作るところではなくて、居場所のない女性たちに部屋を貸し出している福祉施設である。大体の利用者は、勉強したり仕事したりするための部屋を借りている人がほとんどなので、無職の女性が利用することは少ないということは知っていたが、蘭はとりあえず、製鉄所を管理しているジョチさんこと、曾我正輝さんに話してみることにした。

製鉄所の建物に入ってみると、車椅子の後が先についていたので、蘭は車椅子の利用者がいるのかと思ったが、玄関先には女性用の靴は置いておらず、男性用の草履ばかりが置かれていたので、青柳教授の来ていることがわかった。

「なるほど、いくら治療をしても、安定しないのですか。きっと、僕たち男性にはわからない苦しみなんでしょうが、、、。」

ジョチさんは、腕組みをして考え込んだ。

「お前に頼るのもあれだが、なんとかしてやりたいんだ。だって僕のちからではどうにもならないことでもあるんだし。それに影浦先生がいくら安定剤を投与しても、お姑さんが、脅かしてくると言って、泣き叫ぶそうだし、、、。」

蘭は、そうジョチさんに言った。

「本当は、離婚すればいいのかもしれないんだけど、彼女は、日常生活において、不自由なところがあるそうだ。だけど三ヶ月経ったら嫌でも病院にはいられない。だから、ご主人がそばについて、梶本常子さんといっしょに住んでくれるようだけど、それも根本的な解決にはならないよな。」

「そうですね、心に悪性腫瘍ができているようなものですよね。まあ、悪性腫瘍は切除すれば治りますが、心の悪性腫瘍は生きている人間だから困るんだ。その梶本さんという女性の場合、お姑さんの存在が病原菌みたいになっているのだと思いますが、、、。でもですね蘭さん。あいにくうちの施設では、怒りのあまりご飯をぶちまけるような女性は預かれませんよ。」

ジョチさんはそう現状を言った。

「中には、恐怖心をコントロールできない女性もいます。そういう女性に、梶本さんのような女性とあわせるのは、ちょっと難しいところですね。まあ、ピアヘルパーの感覚で付き合わせればいいかもしれないけど、、、。でも今はちょっと。」

「そうか。お前は選べるからな。権力があるってことは、そういうことだ。そうやって自分の都合に合わないやつはどんどん切り捨てる。そういうところが貴様は汚いやつだと言われるわけだよ!」

蘭は、思わずおこってしまったが、ジョチさんは涼しい顔をしていた。

「そういうことなら。」

と、車椅子の音がして、青柳教授の来たことがわかった。

「それなら、トゥルン族の村に彼女を連れて行きましょうか。もちろん、電気もなければ水道もありませんし、ガスもありません。ですが、子供を産める産めないで、差別されることはありません。できなくたっていいんだと言う文化が根づいているからです。その代わり、約束は守ることや、村の秩序を守ることは非常に厳しいですけどね。」

「しかし、青柳先生、原始時代と変わらない生活をしている部族と、彼女が一緒に暮らすことはできますかね?」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ。できると思いますよ。確かに、原始時代と変わらないといえばそれまでですが、その代わり、気持ちの優しさや、自然に対する敬意のような気持ちはたくさん持っていますから。天気の変化すら予測できない人たちではあるんですけど、それだからこそ、謙虚さとか、愛情とか、そういう気持ちに関してはずっと優れています。まるで、子どもの心を忘れないで、そのままおとなになったような人たちです。だから、その女性が、村で暮らすようになれば、きっと、話が通じることもありますよ。どうですか?一緒に手伝い役として、来てみませんか?」

と、雨降り懍ちゃんこと青柳先生は言った。

「そうですか。そういうことだったら、雨降り懍ちゃんといってもいいかもしれませんね。」

蘭は、青柳先生が雨降り懍ちゃんと言われていることにびっくりしたが、ジョチさんと青柳先生は、そう話を進めてしまったようであった。蘭は、もうそうするしかないと思った。


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雨降り懍ちゃんその2 増田朋美 @masubuchi4996

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