朱夏に染る
パ・ラー・アブラハティ
染まれ紅く
夏。それは誰かの青春の一ページに刻まれる。切なさと懐かしさ、キラキラと輝いていて何処か悲しい。
蒼に澄み渡った空はどこまでも続いていて、白くわたあめのような入道雲は空高く。新緑の葉は木陰を作り、紅い自転車は軽快に走る。風が肌に当たる。太陽で火照った体が冷まされてゆく。
眩しい日差しが目をいたずらに刺激して、瞼をほんの少し閉じる。さぁっ、と風が地面を撫でて葉を揺らす。眉の上で髪が揺れ、額の汗が太陽に輝く。ぽつりと、頬を伝って煌めく汗が一筋。
紅い自転車のスピードをグングンとあげる。周りの景色が移ろってゆく。耳の奥に川のせせらぎが聞こえてくる。
「あ、おーい!来た来た!」
視界に川の反射。汗をこれでもかとかいている君。自転車を道の小脇に止める。河岸に続く階段をタンタンと降りる。ジャリジャリ、と砂利を踏みしめる音が川のせせらぎと一緒に歌う。
「ビショビショだね」
「暑いから川に入ったんだ、君もどう?」
「濡れたくないから君だけ入ってなよ」
ビシャリと濡れた服、したたる水滴。水が染みた、紺色の服は黒みがかってる。誘いを断られて不貞腐れた顔をする君。蝉時雨、川でひとり君は遊ぶ。河岸に腰を下ろし、冷やされた風を肌で受ける。パシャパシャ、と君が飛ぶたびに水飛沫が太陽に反射して宝石のように輝く。一粒の宝石が僕の肌に当たる。じんわりと宝石は溶けてなくなる。
「おーい! そろそろ祭り行く準備しなよ、そのままじゃ行けないよ!」
「おっと、それもそうだね」
僕は今日君と近所の祭りへ行く。規模はそれほど大きくないけれど、空に満開の花が咲き誇る唯一の祭りだ。だから、みんな行く。その日は一番の賑わいを見せるんだ。
君は濡れた服を滴らせながら河岸に座る。僕が「汚れるよ」と言っても、君は「どうせ、着替えるからいいよ」と汚れてしまうことを何も気にしない。
ビチャビチャになった君は川の精霊みたいに輝いていた。君があまりも眩しくて、僕の目は気付いたら釘付けになっていて、君が「なにかついてる?」と顔を覗きながら聞いてくるから慌てて視線を逸らした。
「もしかして、やましい事でも考えた?君はえっちだね、全く」
「いや! 違うって!」
「ふーん。じゃ、家に行こうか。えっちな君と」
「あ、ちょっと待ってよ、違うんだって!」
僕が弁明しようとしても君はそんなこと気にしないでズカズカと階段を登る。別にやましいことは考えては無いけど、でも、君に釘付けになっていたと正直に言うのも恥ずかしかった。結局僕はえっちな人というレッテルを剥がすことを諦めて、君の背中を追う。
君は道の小脇に停めていた僕の自転車を見ると「ねっ、二人乗りしようよ!」と楽しげに笑いながら言う。
「危ないからやめようよ。怪我したら痛いよ」
「大丈夫だって〜! 君がちゃんと漕いでくれたら誰も怪我しないよ!」
「いや、でも」
僕は弱気な姿勢で君の提案をやんわりと断ろうとする。でも、君は瞳を輝かせて意地でも二人乗りをすると瞳で語っていた。僕は、仕方ないと思い溜息をひとつ吐く。
「怪我しても文句言わないでよ」
「大丈夫だって。ほら、乗った乗った」
急かし気味に君は僕の背中を押す。僕は嫌々ながらにサドルに座る。君はその後ろにあるリアキャリアに腰をおろす。
「さっ、出発ー!」
君の元気のいい掛け声と共に僕はペダルに力をかける。自転車はゆらっと不安定に進む。右へ、左へ、自転車は方向が定まらないまま千鳥足のように走る。僕の心は転けてしまう、転けたらどうしようと恐怖と焦りでグチャグチャになっていた。転けないように足に力を入れて踏ん張る。後ろに座る君は楽しそうに笑っている。
徐々に慣れてきて、不安定さがなくなっていく。足に力を入れれば、グンッと自転車は速度を増していく。グングンと自転車は安定していき、僕と君は風の中を走って行く。頬に当たる風が恐怖と焦りの心を飛ばしていって、気付いたらそこに怖さなんてなかった。服が風に揺れて、髪が風に揺れて、夏は極まっていく。
蝉時雨、僕と君は大通りを走って行く。空に浮かぶ太陽が君の濡れた服を乾かしていく。君の家はこの道をずっと真っ直ぐ行くとある。建ち並んだお店を颯爽と駆けていく。この瞬間、僕は空に漂う雲になったようだった。何かに縛られることなく、ただ自由に走る。空を雄大に漂う雲のように。
木々の影に揺れる洗濯物。煉瓦造りの塀に立派な門構えの君の家。いつ見ても立派な家。ここが君の家。僕は煉瓦造りの塀の前に自転車を停めさせてもらう。
「ただいまーっ!!」
君が大きな声を張上げて家の扉を開け、声は住宅街に響く。奥から君のお母さんが「もう、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ちょっとだけ汚いけどごめんね。凪、あなたはお風呂に入って着替えてきなさい。どうせ、また川に入ったんでしょ」
僕は二人乗りをしたから体力がごっそりと奪われていた。喉は炎天下で放置した干物のようにカラカラだった。君のお母さんの言葉に甘えて、家に上がらせてもらう。君は「え〜、めんどくさいなあ」と文句を言いながら脱衣所へ向かっていった。
リビングはエアコンが効いていて、外の夏の影なんてなかった。冷風が全身に浮かんでいた汗を冷やす。
「そうそう薫くん、これも食べて」
君のお母さんがそう言って持ってきたのは、ルビーのようにキラリと輝くスイカだった。
「え、いいんですか?」
「いいのよ、うちの人が職場の人からもらってきたんだけど量が多くて。だから、食べちゃって」
「そういうことなら喜んで食べます。ありがとうございます」
僕は頭を下げてお礼を言う。一緒に持ってきてくれた麦茶で喉を潤してスイカにかぶりつく。口の中にジュワッと広がる甘美。甘さの濁流が喉を通過して、胃の中に入り込む。僕は口いっぱいにスイカを頬張る。手がベトベトになっても、口周りがベトベトになっても止まることは無かった。ときおり種を噛み砕きながら食べ進める。シャリっとスイカの皮を少し齧る所まで食べて、僕は「美味しかったです」と言う。
「良かった。どう処理しようかと困っていたから、私も助かったわ。あの子もそろそろ出てくるだろうから、少しだけ待っててちょうだい」
君が来るまで僕はリビングで一人待つ。誰かの家で誰かを待つというのは、何故か心がソワソワとしてしまうものだ。どうしたらいいのか、それを手探りで探すようで心はいつも落ち着くことがない。別に特段何もしないでいいのは分かっているけど、人という生き物に生まれてしまったせいなのか何かをしなければならない焦燥感に困る。エアコンの音と水道の音だけが静かに響く。
「ドーン! 浴衣に着替えた私が爆裂に登場!」
静音を破る声、君はドアを勢いよく開けた。僕は驚く。そして、僕は君の姿を見てまた驚く。金魚の柄をあしらった紅色の浴衣。髪の毛を団子にして、まるで君のために生まれたのじゃないかと錯覚するほどに似合っていて見惚れてしまった。紅く染まった唇は艶やかで色気を纏っていた。
「もう、凪。扉はゆっくりと開けなさい」
「はいはい。ていうか、どう似合ってる?」
「あ、うん。凄く似合ってるよ」
君が一回転する。僕はとても美しい君に瞳を奪われて、言葉が喉の奥から上手く出てこなかった。世界が君の一色に染る。
いつも見ているはずなのに、いつもとは違う。確かに君は君なのに、君は君じゃなくて。自分の心の整理がつかないほどに、君は綺麗だった。
「……良かった」
君は安心したように言う。僕は相変わらずで、気付いたら手汗が溢れていて。部屋は涼しいはずなのに。
そして僕は自分の格好に視線をやる。適当な黒のパーカーに紺色のジーパン。休日のお父さんみたいな格好は、あまりにも君の隣を歩くには不似合いで。なんでこんな格好をしてしまったのだろう、と後悔していると君のお母さんが口を開く。
「あ、薫くん。どうせなら、うちの人の甚兵衛でも着ていく?」
「え、いやでもそれは」
その提案は今の僕にとってはあまりにも嬉しくて願っても無いものだった。けど、スイカとお茶を貰って、さらにそれまで借りるとなると申し訳なさの方が勝ってしまった。
しかし、君のお母さんは「いいのよ、どうせうちの人が太ちゃって着れなくなったやつだから」と言って、僕の了承を待たずにどこかへ行ってしまった。強引というか、話を聞かないというか。こういうところはちゃんと君に受け継がれているんだな、と一人で納得していた。
「お母さん強引だからなあ」
「……そうだね」
君が去っていったお母さんの背中を見てそう言った。僕は君もそうじゃないかな、と言いかけて喉の奥にしまう。少しすると君のお母さんら茶箱を持ってくる。蓋を開けて、中にあった黒色の甚兵衛を体の上から当てる。
「うん、行けそうだね。脱衣所でチャチャッと着替えようか」
そして僕は返事をする間もなく脱衣所に押し込まれて、半強制的、いや強制的に甚兵衛を借りることになった。
僕は甚兵衛のズボンを履いてちょうどいい所で紐を結ぶ。上着を羽織って、内側の紐と外側の紐を蝶蝶結びする。鏡に映る自分はさっきの自分より夏らしさがあった。君のとなりを歩くには多少は似合うようにはなった。着ていたジーパンとパーカーを手に持ってリビングに行く。
「あら、いいじゃない」と君のお母さんが言う。君は僕の方を見て、特に何も言わずに固まっている。君の事だから、何か言ってくるに違いないと踏んでいた。だから、この反応は想定外だった。
「さっ、凪。もういい時間だから祭りにいってらっしゃい」
「あ、うん。そうだね。行こう」
さっきまで固まっていた君が僕の手を引っ張る。グイッと体が急に引っ張られて体勢がよろっと崩れる。
「あ、何から何までありがとうございます!スイカ美味しかったです! 甚兵衛返しにまた来ます!」
「はーい。気をつけてね」
君がグイグイと引っ張るから、僕はゆっくりとお礼が言えなかった。君のお母さんは僕と君をリビングのドアから顔を覗かせながら見送ってくれる。
外に出ると世界は夏祭りの色に染っていた。遠くから聞こえる太鼓の音。人の喧騒。人はそれぞれ好きに自分を着飾って祭りへと向かっている。空に浮かんでいた太陽は徐々に夕陽へ。そして月へとバトンを渡していく。星々が街を照らす。
「早く行こ! チョコバナナ食べなきゃ!」
君は祭りの空気に当てられて、会場に早く行こうと僕を急かす。ここから会場の白樺神社までは徒歩で3分で着く。君は僕の手を強く握りしめて神社までの道を走る。
すれ違う人々は家族連れ。カップル。友達。様々で、今の僕と君はそのどれに当てはまるのだろうか。手を繋いでいるから、傍から見ればカップルかもしれない。仲のいい友達かもしれない。高鳴る心臓は高揚を増して、白樺神社に着く。
白樺神社は人で賑わっていた。ズラっと奥まで並ぶ屋台のいい香りが全体を包み込んで食欲を刺激する。君が欲しがっているチョコバナナは白樺神社の階段を登って直ぐにあった。境内はいつものように閑散としていなくて、活気と人の熱で溢れていた。
「おじちゃんひとつ!」
君がねじり鉢巻をしたガタイのいいおじちゃんに話しかける。二人は顔見知りのようで親しげに話していた。僕はねじり鉢巻なんてする人いるんだなあ、と一人で珍しがっていた。
「お、凪ちゃん! 今日も元気だね、横の子は彼氏かい?」
「あー、いや。違うよ、友達だよ今は」
「あっちゃ〜! こりゃやっちゃった、凪ちゃんこれサービス持って行って!」
そう言うとチョコバナナのおじちゃんは君と僕に一つずつチョコバナナをくれた。僕は今日人から色々な物を貰いすぎている気がする。お茶やらスイカやら甚兵衛やら。
そして、追加されたこのチョコバナナ。別に僕は乞食をしているわけでもない。お金はちゃんと五千円程は持っているし。神様はいったい僕にどうしてほしいのだろうか。いや、特に意味は無いんだろうけど神社だからそんなことを考えてしまった。
僕と君はチョコバナナを食べながら境内をぶらりと歩く。焼き鳥、イカ焼き、ポテト。様々な食べ物が並ぶ。君はそのどれもに目を輝かせて、そして次は「金魚すくいやろう!」と言い出す。
「ちょっと、持ってて」
君は僕に食べかけのチョコバナナを渡して、金魚すくいを一回やる。水槽をスイスイと泳ぐ金魚。君はぽいで必死にすくおうとするけど、君のぽいは一匹目をすくおうとした瞬間に破れた。とてもガッカリした表情で君は僕の方を見てくる。何も言わないけど、その瞳が訴えていることはそれとなく分かる。僕は自分の財布から二百円を出して、金魚すくいにチャレンジする。
結果は僕は二匹の少し小さめの赤い金魚をすくうことに成功した。それを君にやると大層喜んで、子供のように無邪気に喜ぶ。金魚をゲットした僕と君はまた境内を歩く。金魚の袋の水が提灯に反射して、君の頬に影を作る。
「そろそろ花火の時間かな」
「そうだね、そろそろ始まりそうだね」
境内の時計は十八時半を指していた。花火が咲くのは十八時四十五分。いい時間になりつつあった。花火が見える所へ移動しようか、となったが僕の尿意が突然襲ってくる。
「あ、ごめん。ちょっとトイレ行っていい?」
「いいよ〜、外で待っとくね」
境内の少し外れたところにあるトイレに急いでいく。神社のトイレだから汚いと想像する人が多いだろう。だが、ここの白樺神社はつい最近トイレの工事を行ったらしく蜘蛛の巣ひとつなかった。僕は手を洗ってトイレを後にする。
「姉ちゃん、可愛いね。一人?」
右の方からチャラチャラした男の声が聞こえる。視線を移すと君がナンパされていた。君は無視を決め続けているけど、明らかに身体は小刻みに震えていた。僕は慌てて、男と君の間に割って入る。
「あ、もう花火の時間だから行かないと!ねっ、あ、じゃあ!」
「ちっ、なんだよ彼氏持ちかよ」
僕は訳の分からない事をつらつらと並べて、君の手を引っ張っていく。引っ張る君の手は震えていて、一人にしてしまった自分が情けなかった。
「ごめん、一人にして」
ベンチに腰を下ろして君に謝る。
「ううん、君は悪くないよ。こんな素敵な日にあんなことをする連中が悪い」
君は空を仰いで強気に振る舞うけど、繋いでる手はまだ震えている。だから、それは嘘で僕を安心させるための言葉ということが痛いほど分かってしまった。
僕は僕が許せなかった。あの時もちゃんとやめてくださいと、言えなかったし強く出れなかった。もっと、強気に出ていたら。なんて後悔のタラレバをしたところで意味は無い。人の喧騒に混じって僕の後悔もどこかへ消えてしまわないだろうか。そんなことを考えていると、ヒューと空に浮かぶ花はドンッ、と大きな音を立てて満開になる。
「あっ、始まったよ!」
次から次へと花はあがる。咲いては散って、夏の花は寿命が短い。それゆえの儚さ。君の瞳に映る花はどんな風に写っているのだろうか。
「ねえ、綺麗だね」
息を吐くように君は言う。
「うん、綺麗だ」
君とこうしてこれを見れるのはあと何回なのだろうか。今年は見れた、でも来年は。再来年は。こうして君が僕の横に立ってくれている確証なんてどこにもない。この空に咲く花のようにいつかは散ってしまうかもしれない。未来は不確定で、不安定で。道のあるかも分からない先に、その先にいつも君が僕の横で笑ってくれているだろうか。笑いあってくれているだろうか。何年先も君と笑い合える未来は。
傘が必要な時に傘を差せる人間は僕でありたい。君が悲しい時は僕が笑顔にしてあげたい。君が怖い思いをするなら、僕が無くしてあげたい。
だから、僕は。
「僕は君が好きだ。付き合って欲しい」
「えっ?」
僕は気付いたら君に告白をしていた。さっきまで響いていた花の音がパタリと止んで、心臓の音がうるさく聞こえる。君はオロオロと視線を行ったり来たりさせて、耳がみるみる赤くなるのがわかった。僕の耳も熱くなる。世界の時間が止まったようで息をするのも忘れそうになる。手には汗がじんわりと滲む。
「君が好きなんだ。僕は。ずっとこれからも一緒にいたい」
「……えっと、はい。喜んで」
君の瞳から一筋の涙が頬を伝う。空に浮かぶ花が散る頃、僕の恋は実った。
朱夏に染る パ・ラー・アブラハティ @ra-yu482
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