ゆうひとあさひ②_20241118
・ゆうひ
憂鬱の波がやってくる。わたしは人々より早く自分が生きているということを頻繁に思い出して憂鬱の波を感じている。忘れていたことを思い出す安全に忘れていたことを。真実を思い出す認知バイアスに隠されていただけのことを思い出す。
テレビから男の子の頭が突き出ている。
「心霊ものだわネー」偽お母さんがそう言って、わたしに同意を求める。わたしは頷く。偽お母さんを本物のお母さんだと信じて疑わないという風に、ふつうに頷く。
「アー、出てきた出てきた。この子こんなに小さいのにちんでちまったの? んん?」
偽お母さんはテレビから完全に抜け出した男の子を抱きかかえて、血に塗れた顔面をのぞき込んでいる。慈愛に満ちた表情を作っている。
偽お母さんは、お母さんに完全に擬態できていると思っている。でも、実際はお母さんと似ても似つかない。目は二つどころか身体中にぶつぶつ開いていて、白目を剥いていたり、焦点が合わなかったり、黄色い膿を垂れ流していたり、血走って震えていたりする。顎は大きくて、頭がすごく小さい。頭の毛はまばらで、頬に細かな鱗がびっしりと生え揃っている。
「アラかわいい人間の子だわネー」
偽お母さんはわたしをじっと見つめながら、男の子を抱えてゆらゆらと揺らしている。
「ゆうひ、私の娘ヨ。いい? 今は多様性の時代だから、お母さんのこの見た目を恥ずかしいとか、思っちゃだめなのヨ? 認めなくチャ、多様性を。だから、間違ってもお母さんのことを偽物なんか思っちゃダメよ? あなたのお母さんはいつだって本物のお母さんなのだからネー」
偽お母さんは、体内に取り込んだお母さんの背骨をカラカラと触れ合わせた。わたしは、お母さんの背骨以外が家の庭に埋められていることを知っている。
偽お母さんがうちにやってきたのは、去年の夏だった。土曜日の朝で、お母さんはいつものようにバイト先で捕まえてきた男の人(お母さんが捕まえてくるどの男の人も体毛が全くない)を殺して庭に埋める作業をしていた。わたしはお母さんに言われた通り、その作業を吐きながら見ていた。
インターホンが鳴って、お母さんが玄関のほうに行った。「ここに、ゆううつの臭いがするのですけども」しわがれた声がした。
「ゆううつ? そんなもの、うちにはないけれど」お母さんが答える。わたしは居間からそうっと玄関のほうを覗いた。お母さんの向こうに、小柄な人が立っていた。
「いやいや、たしかに、ゆううつの臭いがするのですけれども」
小柄な人が家の中を覗き込んで、わたしと目が合った。その人の体表からはもやしがぴょろぴょろと生えていて、身体の動きに合わせてふにゃふにゃと揺れている。カタツムリみたいな両目が動いて、わたしを凝視している。
「はぁっ」小柄な人が息を吞んだ。
「あれだ。あれだ」体表のもやしがわさわさと揺れて、伸び縮みした。「ゆううつの臭い。あの子。あの子からするのはゆううつの臭い」わさわさ。新たなもやしがもこもこと生えてくる。
お母さんがもやしに包まれるのをわたしは見ていた。お母さんの背骨だけが首の後ろから抜き取られて、吸い込まれていく。
お母さんが無言のまま崩れ落ちた。いや、崩れ落ちたのはお母さんではない。背骨を失ったお母さんは、もはやお母さんではない。
偽お母さんは、何事もなかったように、お母さんのふりをして、言った。
「あなた、夜ご飯はなにがヨイかしら」
それから、偽お母さんはお母さんに擬態して、生活を始めた。
お母さん。わたしは毎晩、お母さんの夢を見る。お母さんはすごく嬉しそうに、庭の穴を掘っている。お母さんが埋めようとしている男の人たちは、なぜか生きていて、「はっぴーはっぴー」と甲高い声で歌いながら踊っている。お母さんは踊る男の人たちを見て微笑む。
「もうすぐ穴ができるからね。ちょっと待ってね」
穴ができる。直径一メートル深さ一メートルの穴ができる。
「できたわよー」お母さんが声をかけると、男の人たちは歌い踊るのをやめる。かわりに、作業を見守っているわたしのほうを見て、こそこそと笑いあう。
「カワイソウニナ」「カワイソウニ、ナっ」きゃっきゃ、きゃっきゃと、笑いあう。
お母さんがわたしに手招きをする。「今度はお前の番だよう」
「お前が穴に入る番だよう」
わたしは怖くて叫ぶ「ああああああ!」男の人たちはきゃっきゃ、きゃっきゃと笑い、また踊りだす「お前の番だよう」本当に? 本当にわたしの番? わたしは怖くて、怖くて、でもちょっと期待している。もしかすると、もしかすると、死ねるかもしれない。ほんとうに死ねるかもしれない。苦しまずに死ねるかも。
恐る恐る穴に近づいてみる。穴の中は真っ黒で、わたしが発する光を反射している。
穴に入る。冷たくて温かい。ああ。ああ。ああ。これが死ぬということ? 心地よい気がする。眠い。ああ。これが死? これが死? ああこんなに楽に死ねるならばもういいなア。穴で死んでもいいなア。どんどんどんどん眠くなってくる。夢の中なのに。どんどん眠くなってくる。男の人たちは笑って踊っている。祝福してくれているのだ。死にゆくわたしを祝ってくれている。もう何の痛みも感じない。眠るように死ぬ。眠るように死ぬ。
・ゆうひ
わたしのクラスでは女の子のアイドルが流行っている。わたしも密かに好きだけれど、みんなわたしが女の子のアイドルを好きなことを知らない。
「ふへ、ふ、ふ、ふへ」自分の部屋で女の子のアイドルが歌って踊る動画を見ながらわたしは笑っている。「ふへ、ふへ、ふへ」かんわいい。わたしのなかのおばさんが気持ち悪く喋っている。「かんわいいわねぃ。ねぃ。ねぃ」気持ち悪いおばさんが喋っている。
「それっておばさんじゃなくて、ゆうひじゃん」
女の子のアイドルの動画に見入っているわたしを観察していたあさひちゃんが言った。
「え、おばさんじゃない? わたし? この気持ちわるぅいの、わたし? それにどうして、おばさんはわたしの心の中にしかいないのに、どうして」
あさひちゃんはひゃひゃひゃと笑った。「喋っちゃってんじゃん。ゆうひ、心の中の言葉、しゃべっちゃっているよ」
え、い、いや、そんなはずわゎゎ。「ふへ、ふへ、ふへ」
あさひちゃんは、わたしがあげたポテトチップスを平らげると、帰っていった。わたしは心の声が聞かれていたのが恥ずかしくて、太ももを搔きむしった。青筋の見える太ももに赤い痕が残った。
「もうアタマおかしいんじゃないのか!?」
心の中のおばさんがヒステリックに叫んでいる。
アァ、たしかに、だめかもしれない。
ほんとうに、だめかもしれない。オワっているかもしれない。
でも、そんなこと思いながらも、わたしはまだ女の子のアイドルの動画を見ている。ミュージックビデオを見ている。
わゎぁぁ、かわい。
女の子のアイドルの笑顔が救いになると、わたしは思っている。もうだめだと思いながら、もうだめだと自分に言い聞かせながら、ほんとうのところでは、アイドルで欲求を満たしている。だから完全にだめになっているわけではないし、ほんとうに苦しんでいるわけではない。
わたしは本当に憂鬱になれるほど恵まれていない。
「おわゎゎぁ」
今日はオナニーして眠る。
・あさひ
「あさひちゃんとゆうひちゃん、すごく似ているよね、顔とか髪型とか、もう双子みたいだよね」
お昼休みに教室でゆうひとお昼ご飯を食べていると、うすべにが来て、言った。あたしとゆうひは目を合わせた。
「似てるかな?」あたしが言うと、ゆうひも「え、似てるかな?」と言った。あは。おもしろい。
「アー、声も似てるなー。マジで双子みたい。ねえ、もっとなんか双子っぽいことしてよ」
「えぇ、なんかあるかなァ」
「あるかな……あ」ゆうひが何かを思いついた。
「なに?」
「あのぉ、ふ、双子、コーデ、とかどうかなあの同じ服着るやつ」
「おあー、いいじゃん。かわいいいいじゃん」ナイスアイディアじゃん。
あたしは身を乗り出して、向かいに座っているゆうひの頬っぺたにチュウした。
「おわゎゎゎ」ゆうひは目を白黒させた。
土曜日にゆうひと双子コーデして遊びに出かけた。
髪型はツインテールにして、アイスクリームの絵柄の書いてあるシャツを着て、空色のスカートを履いてみた。
「ふおぉ、かわいいじゃん」
うすべにがカメラを持って騒いでいる。
あたしはゆうひの格好を眺めた。
うすべにの言うみたいに、鏡で自分の姿を見ているみたい。背丈は同じだし(百六十五センチ)、顔も似ているし、ほくろの位置だって鏡写しになっている。
「こんなに似ているなんて珍しいよね」あたしはゆうひの目ン玉の中を覗き込みながら言った。ゆうひの瞳は真っ黒な穴で、何にも写っていない。
「あの、わたし、喋っていいの?」
「いいいに決まってんじゃん。逆になんで喋んないの」
「い、いやなんとなく」
「ほげぇ。ま、遊びに行こうぜいこうぜ」
ショッピングモールの吹き抜けのステージで、ピエロが錯乱していた。
「ムオー! ムオー! 喋りたい! 意味のある文章を、喋りたい! ワタクシ生まれてこのかたピエロなもんでして、無意味な言葉や動きしかインプットされていないのでゴザイマスが、そろそろ、ワタクシそろそろ三十七歳になりますので、そろそろ教養のある、意味と含蓄のある言語を発したいッ! ムオォ、ムオー」
ピエロの叫びに誰も応えることはなかった。でも、みんなピエロのことを見て笑っている。スマホで動画を撮っている。ピエロは道化だから、道化の叫びはそういう芸だと思われているから、ピエロが本当のことを言ってもすべて無意味だと思われてしまうのね。
「かわいそう。ね、ね、あさひちゃん。ちょっと、あのピエロの声聞こえないところにいきたいけど、いいかな。だめかな」
ゆうひは最近あたしの袖を引っ張ってなにかを訴えることが増えてきた。
「いーよ。もっと楽しいとこ行こ」
ピエロは誰も本気で相手してくれないことを悟ると、近くで動画を撮影していた男の人を捕まえて、殴り始めた。それでもだれも止めないで、ピエロの暴行(もうすぐ殺害になる)をそういう芸だと思って笑っている。
あたしはゆうひの手を引いて、吹き抜けから遠ざかった。
男の絶命音とピエロの悲鳴が背後から聞こえた。
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