救い/占星師の卵_20241113

・救い

 人間は皆救いを求めている。現実をありのまま直視しながら、現実を受け入れられず、救いを求めている。苦しみを抱えながら、落とすこともせず、捨てることをせず、無意味に育てようとしている。苦痛を育んだ先になんらかの救いがあると無意識的に信じている。救いがあると信じているのだ。幸福ではなく、救いがあると信じている。人間たちは救いを求めて苦痛を抱えるために、幸福を諦めている。あるいは幸福を諦めてもなお、救いという別の何か、自分にとって「よい」状態を望んでいる。

 幸福と救いは同じではない。

 救いとは何か。


・占星師の卵

 あれあのほうき星を追いなさい。

 大先生は星空の衣を纏い、星の光の杖をかざして、私たち生徒に彗星の行方を占わせた。

 彗星の行き着く先を占うのは容易いことではない。占星師の卵たる私たちは必死に天球儀を睨むが、彗星の目的とする場所はおろか、次にどちらの方角を向くかといったことすら分からない。それぞれの祖国では私たちの誰もが民から尊敬の念を集め、人に道を説き、学問に通じていたにも関わらず、大先生の前では、私たちはほんの赤子に過ぎない。

 私は焦りを感じながらも、天球儀に触れる。星の道が現れるまで、辛抱強く待つ。天球儀に触れる際は、その加減が肝心である。例えば水面に指を近づけて、波紋が立つかどうかという程度。触れるか触れないかという加減で、触れる。弱すぎてはいけない。強くてもいけない。天球儀自体も膨張収縮を絶えず行っており、それに合わせた加減が必要である。

 ふぉん、ふぉん。かすかに、指の先を霧が通り過ぎたような、僅かな感覚があった。私は天球儀の変化に合わせ、触れ方を一定に保つ。指に混ざる霧は次第に透明度と粘度を増し、私の指に絡み始めた。私はその動きを勢いよく迎合するわけでも、きっぱり拒否するでもなく、動きに合わせて指を近付けたり、遠ざけたりした。しばらくすると、霧が粘度を失い始めた。かすかな引力を感じる。指の先が溶けて無くなったかのように、感覚が消滅している。それから、天球儀と己との境界が失われていることを知る。私は一息に指を天球儀へと沈めた。手、腕、肩、霧の中に、天球儀の中に沈んでいく。頭、胸、腹、腰、両足。すべてが天球儀に飲み込まれた。

 私の視界は、天球と化した。視界だけではなく、すべての感覚が天球と化した。私は天球と同化し、天球内のすべての事象を感覚する。もちろん、天球内の天球儀の中に入りこんだ私自身も感覚している。私は私と全く同等の私自身を内包している。天球儀内の私は天球と同化した私自身であり、その私は天球と同化し、天球のすべてを感覚している。天球に刻まれた過去現実そして無数の実現可能性のある未来を感覚している。

 私は天球の細く細く長大な腕の一本を用い、件の彗星に触れた。彗星も天球の一部であり、天球としての意識を多少なりとも分け与えられている。私は彗星の行方を知り、満足した。

 天球との同化が終わり、天球儀から抜け出すと、大先生もほかの生徒も、私を見ていた。

 ほうき星の行方は、何処であったか。

 私が大先生の問いに答えると、大先生は星の光の杖を一度、振った。私の夜の衣の裾の辺りに、私が行方を占った彗星が現れた。私が大先生に与えられた初めての星だ。今はもう、天球儀に入り込まずとも、この彗星を感覚することができる。この彗星の起源、今の状態、そして死に至るまで、すべて感覚することができる。私はこの彗星の分だけ、天球と同化したのである。

 大先生はその衣に天球のすべての星を刻んでいる。つまり、大先生は完全に天球と同化している。途方もない年月をかけて、その境地に至ったのである。私は大先生に対して、畏怖と尊敬の念を覚えずにはいられない。そして憧れている。私もいつか、すべての星をこの夜の衣に刻み、天球と完全に同化してみたい。

 あれあの氷の星を追いなさい。

 大先生が杖をかざして、私たちはまた天球儀に触れる。

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