一文字(いちもんじ)家の日常

ヨコ

第1話 冷えた朝にも香る湯気

「お前、それじゃホストだぞ……」

居間に入ってきた風夜ふうやは、ひとつ下の弟を見るなり呆れたように言った。

鏡の前でネクタイを締めていた朔乃さくのは複雑な顔をして振り返る。

「弟の記念すべき門出の日に、その言葉は無くね?」

「その頭で出るつもりか?せっかくのスーツが泣くぞ」

そう言って指差された朔乃は首をひねったが、すぐに理解したのか「あぁ」と頷いた。

「先週染め直したばっかだぜ?金がもったいない」

そう言って自身の前髪をつまみ上げる。脱色して色素の薄くなった髪は金色に近い。

風夜が更に口を開こうとしたとき、近くの襖が開いた。

「おはよ……って、あれ?なんでスーツなんか着てるの朔乃」

眠気の取れていない半開きの眼で顔を出したのは、次男の遥正はるまさだった。

そんな兄に対して風夜が応える。

「遥正さん、今日はコイツ成人式なんだよ」

「なぁ遥兄はるにい、どっからどう見ても立派な成人だろ?」

満面の笑みで親指を立てた朔乃をじっと見て、遥正は悪気のない笑顔を返した。

「なんか朔乃、夜の商売してる人みたい」


二階から降りてきた末っ子、月次郎つきじろうはひとりで茶をすすっている遥正を見て首を傾げた。

「遥兄ひとり?朔乃はもう出かけた?」

「いや、風夜に引っぱられて洗面所行っちゃった。……あ、戻ってきたかな」

二人ぶんの足音がどたどた近づいてきたかと思うと、勢いよく襖が開かれた。

「あぁもう時間なくなっちまったじゃねえかよ!」

「さっきの恰好で出かけて恥をさらすよりマシだろ。それよりお前の髪質は厄介だ。俺のワックスが空になったぞ」

風兄ふうにいの髪質だって俺と変わんねえよ!」

そこまで叫んでから、朔乃は末弟の存在に気が付いた。

「月、起きてきたのか」

声を掛けられた月次郎はそれには答えず、遥正とともに朔乃を凝視していた。

いつもあちこちはねている髪は風夜が苦心したのだろう、ワックスで固められて全て後ろに流されていた。いわゆるオールバックというものだろう。いつものようにピアスをきらつかせ、淡い栗色の目が不思議そうにしばたいた。

「ふたりとも、何で固まってんだ?」

その問い掛けに、呪縛が解かれたように月次郎がやっと口を開いた。

「チンピラみたい」

隣で遥正がたまらずといったように吹き出した。

風夜は顔を明後日の方向へ向けている。どうやら思うところはあったらしい。

「俺はどうすりゃいいんだよ……」

気の抜けたように呟いて、朔乃は居間に腰を下ろした。

「いいんじゃない?帰ってきたら他の人たちの反応どうだったか教えてよ」

「遥兄、他人事だと思って……。だいたいチンピラなんて、風兄じゃあるまいし……っ!」

そこまで言いかけて朔乃は口をつぐんだ。

こういうときに風夜を引き出すのは非常によろしくない。たとえ冗談であってもだ。

居間の空気ががらりと変わったことに誰もが気が付いた。

おそるおそる風夜の顔色を窺った朔乃は、それからすぐに後悔した。

「朔乃、誰がチンピラだァ!?もう一度言ってみろコラ」

切れ長の目が吊り上がってキレた風夜は誰よりも柄が悪かった。

修羅場を予感させる空気を霧散させたのは月次郎だった。

「それより時間は?」

「あっ」

壁掛け時計を見上げた朔乃は、あせったように腰を上げた。

「行ってくる!」

部屋を飛び出そうとした朔乃に、胸元から煙草の箱を取り出しながら風夜は声をかける。

「朔乃」

「……はい」

動きを止めた朔乃に向けて風夜は短く続けた。

「帰りになんか甘いモン」

「大和屋の栗ようかん!忘れず買ってくる!」

勢いよく返事をしたかと思うと、振り向かずに朔乃はそのまま廊下を駆けていった。



お湯を沸かすと言って遥正は台所に向かい、縁側では感情のスイッチが切り替わったように風夜が満足げに煙草の煙を吐き出していた。

月次郎は窓の外に目を向ける。空は高く、冬の空気が朝から澄んでいるのが分かる。

雨じゃなくてよかった、ひっそりと月次郎は心のうちで呟いた。

「月次郎」

声をかけられて視線を移動させると、煙草を灰皿に押しつぶした風夜が片腕を上げていた。

「なに?」

「おいで」

月次郎は困ったように、けれど断る理由もないので大人しく傍らに移動した。

「朔乃もいつの間にか成人か。月次郎もすぐに大人になるんだろうな」

子供のように髪を撫でられ、父のように目を細められ、月次郎は思わず笑いをもらした。自分はもう中学生だというのに、この兄はいつまでも自分を小さな子供だと思っているふしがある。

「お茶入れたよ~」

お盆を持って現れた遥正がのんびりと声をかけてくる。

「朔乃も飲んでいけば良かったのに。ほんと慌ただしいな」

「いつものことでしょ……葉兄ようにいは?起きてこないの珍しいね」

「まだ寝てる。昨晩遅かったみたい」

月次郎と遥正のそんなやり取りを聞きながら、風夜は湯気の立つカップに手を伸ばした。

緑茶の香りが鼻をかすめる。

きりりと冷えた冬の朝に、引き締まった心をほぐれさせてくれる。そんな心地いい香りだった。




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