第3話 現れた魔
「あれは人間ではないのだ。人間の姿かたちをしておるが、人間ではない。儂は、儂は人間だ。チェル、お前も人間だ。近くの村に住む白い人たちも人間だ。だが、あれは人間ではない。あれたちは、人間の姿をしておるが、魂はすでに魔に喰われておるのだ。姿かたちが人間に見えるだけだ」
そう言って、酋長はしばらく黙っていた。チェルは、酋長の言葉の意味を考えながら、酋長の次の言葉を待っていた。
「人間というのは、チェル、魂が光に憧れるようにできている。愛や喜びを望むようにできている。われわれは、われわれの魂がもといたところ、大いなる聖霊から決して切り離されることはなく、大いなる聖霊につながるものに引き寄せられるようにできている。太陽の暖かさ、月や星の光の安らぎ、体にふれるそよ風や、手や足をひたす湧き水の中に、大いなる聖霊の輝きを感じ、自然に喜びを感じ、命を尊ぶようにできているのだ。だが、あれらはそうではない。大いなる聖霊から切り離され、何を見て、何に触れようとも、心が輝きや喜びを感じることはない。あれらは、魔に魂を喰われたものたちだ。もはや人間ではない」
チェルは自分が見た人間たち、人間の形をしたものたちのことを考えた。酋長が言ったことを理解しようとつとめた。そして自分の心にかつて感じたことのない、獏とした暗闇、不安が広がっていくことを感じていた。それはチェルにとって、居心地の悪い体験だった。なにか心が、どこかにひきずられていくような感じがした。
酋長はじっとチェルを見た。
「チェル、おまえは魔に触れてしまった。おまえの心や魂はまだ人間だが、魔に触れたために、魔をその身のなかに取り込んでしまったのだ。だが、それは決っして悪いことではない。これは、あらかじめ定められたこと。儂は、お前こそが、そうなるであろうと感じていたのかもしれん」
チェルははじめて体にふるえを感じた。何かが変わったことを体で感じていた。チェルは自分の手を見た。手の平を見、ひっくり返して手の甲を見た。見慣れた自分の指、最近急に大きくなってきたような気がする指がまっすぐのびているのを見た。それから自分の体に目を落とした。見慣れたいつもの体、だけど何かが違っているような気がした。
「それは・・・」
チェルは声を発した。聞きなれたはずの自分の声も、なにかが違って聞こえた。
「それは、僕のことも予言に書いてあったのですか?」
三代前の酋長が予言の力を持っていたことは、部族の全員が知っていた。その予言は、現代にまで及んでいた。だが、天変地異などを含む、部族の存続にかかわる危険と、回避の方法についてのすべての予言を知っているのは酋長だけであった。
「お前には、ある程度話すべきであろう。
三代前の酋長が予言者であったことは、お前も知る通り。
はやり病や、長雨、干ばつ、河の氾濫など、部族の危機は予言され、そしてその被害を最小限にすべく、儂ら酋長は骨をおってきた。そうした危機の予言の中に、魔のことも記されていた。儂ら酋長と呼ばれる人間は、魔のことは知っておる。だが、魔をこの身に取り込んだわけではない。そしてここが重要なのだが、魔を取り込んだことのない人間には、魔に勝つ力は与えられていないのだ。
わからぬか?わからぬ顔をしておるな。まぁいい。わからずともいい。だがしかし、魔は大いなる精霊には決して勝てぬ。勝てる日はこぬ。なぜなら大いなる聖霊は戦わぬからだ。戦わぬ相手に勝てることはない。すべての魔が集結して大いなる聖霊に戦いをいどもうと、魔は決して大いなる聖霊には勝てぬ。それは忘れてはならない。
だが、儂は魔には勝てぬ。魔を取り込んでおらぬからだ。儂の魂は大いなる聖霊に捧げており、負けることはないが、現身を持つこの体は負けるのだ。魔が近くに現れたとき、儂は自分の魂を守ることはできるが、体を守ることはできぬ。それは部族の皆に対しても同じことだ。儂は部族の皆の魂は守れるが、体を守ることはできぬ。人の体は魂ほど強くない。なぜならこの身は魂をまとった狩衣でしかないからだ。儂のこの姿も、お前のその姿も、魂がまとう入れ物にすぎぬ。入れ物は弱い。だから入れ物に重きをおいてはならぬが、この世にいる限り、この入れ物を大切にせねばならぬ。
三代前の酋長の予言はこうだ。部族の近くに魔が現れる。その魔に最初に触れたものは、部族を魔から守るタリズマンの役目を背負う。つまり、チェル、お前こそが儂ら部族のタリズマンになったのだ」
酋長はそう言ってチェルを見た。
チェルは何をどういえばいいかわからなかった。
もう一度、自分の手を見た。それから、部族全員が酋長から与えられているタリズマンを見た。
この部族は酋長から与えられたタリズマンを首にぶら下げている。
部族に赤ん坊が生まれると、親族の誰か(たいていは父親)が、酋長のところに知らせに行く。酋長は赤ん坊の生まれた家にやってきて、赤ん坊に祝福を与え、自らその赤ん坊にタリズマンをかける。
この部族では、赤ん坊が生まれたときに皆でお祝いする習慣はない。ほとんどの赤ん坊は静かな静寂の中で、夜に生まれてくる。降りてくる魂が夜を好むからだと言われていた。赤ん坊が生まれた夜は、次の日の朝日が出るまで、誰も騒いではいけない。強い光を浴びせたり、大声をかけたりすると生まれたての無垢な魂に傷がつき、騒々しく落着きのない人間になると言われていた。
赤ん坊の産声が響いたあとは、沈黙の中で出産の後片付けをする音だけがあり、酋長が赤ん坊を祝福する声だけが響く。次の朝になっても、部族の仲間は赤ん坊が生まれた家を訪れたりしない。赤ん坊が外の空気に触れ、家族以外の者に触れていいのは首が据わったあとだ。それまでは家族と酋長だけが赤ん坊に触れることができる。母親は赤ん坊の首が据わるまで外には出ない。赤ん坊の小さな兄や姉も、赤ん坊の魂を迎える儀式として、厳粛さと静粛さを保つように大人たちにさとされ、そのように行動していた。
酋長は、赤ん坊が生まれる前にタリズマンを作り終えている。そのタリズマンは、酋長が赤ん坊の魂とアクセスして作ったものだ。酋長は赤ん坊の魂がどこからきて、どのような特質と使命を持つのかを北に聳える山の神から教わっている。赤ん坊の魂が、地上に降りてきた使命を達成できるよう、タリズマンは赤ん坊の特性と使命を表現するものとなっていた。
タリズマンは、首飾りとして心臓の上にくる高さにかけられている。赤ん坊から大人になる過程、大人になってからも人生の通過儀礼の折々に、酋長の手によって新しいタリズマンに作り替えられる。作り替えのときは、酋長と差し向かいで座り、人生における夢や希望を語るのがならわしだった。タリズマンは壊れたり汚れたりすることもあるが、そんなときにも、酋長と差し向かいで座り、語りあいながら修繕することとなっていた。
タリズマンは、着替えや水浴びのときでも外すことはない。体を洗うときはタリズマンも体の一部として一緒に洗うのだ。タリズマンは神聖な植物から糸を作り出し、その糸を編み上げて作られていた。このタリズマンは、人生の最後まで身から離すことなく、葬送のときにはその身とともに埋められる。身の一部であり、装飾品ではない。チェルはさきほど、酋長にうながされて着物をすべて脱いだが、タリズマンは変わらずチェルの胸にさげられていた。
チェルのタリズマンは、赤ん坊のときから小さな鳥の羽根がついていた。優秀な鳥捕りであり、鳥の精霊と近しい魂を持つチェル自身を象徴するものだった。羽根の性質上、チェルのタリズマンはほかの人のそれより壊れやすく、チェルは幾度も酋長に修繕をお願いしに行かなければならなかった。だがチェルは酋長が大好きだったので、タリズマンが壊れ、酋長と二人きりで話す時間を持てることを喜びに感じていた。
いまのチェルのタリズマンは、円形のタリズマンの内側に拠りかけられた糸が上向きの三角形と下向きの三角形を作り、左上部から青い鳥の羽根が下がり、鳥の巣から取られた枝が落ちてくる羽根を受け止めるような形に組み込まれていた。
「僕は・・・僕は何をすればいいのですか?」
チェルは酋長に問うた。さきほど見た光景が瞼に蘇った。血を流していた2つの遺体。興奮した野卑な男たち。そして、森から現れようとしたざわざわとざわめく暗い気。
「残念ながら、儂にもわからぬ」
酋長はそう言って嘆息した。
「儂は予言の力を持たぬ。予言の力があれば、と思うことはよくある。とくに今のように、得体の知れぬ人間が次々現れ、儂らの運命が変わっていこうとしているときには。だが、予言の力を持たぬことが儂の善き宿命なのかもしれぬ、と思うこともある。予言の力は諸刃の剣じゃ。儂は、儂のできることに最善を尽くすのみ。どのような結末になろうとも、大いなる聖霊は、それ以上のことを儂に望んではおられぬ。
タリズマンとは、その人間の魂の特質と使命を一生をかけて守るもの。だから、お前は部族の特質と使命を守るものとなったのだ。そのことは、もしかするとやや重荷になるものかもしれぬ。だが、決して悪いことではない。守る役目は、守れる力のある者に託される。このさき、どのような運命がお前に待ち受けているかはわからぬが・・・儂と同じように、ただ自分の最善を尽くせばよい。人生を必要以上にむつかしく考える必要はない。日々、自分にできることを精一杯やりつくすのみ、それだけで十分なのだ。
まだ、何も始まっておらぬ。起こっておらぬ未来をあれこれ心配することはエネルギーを枯渇させる。今日の事件は、すでに起こってしまったことで、過去のことだ。いつもの日常から外れた、突然で耐え難い苦痛を伴うものであった。だが、ケガもしておらず、お前の体は健康そのもの。過去のことはいつまでも思い煩わず、今を取り戻そう」
酋長はふと優しい目をしてチェルを見た。
「とりあえずは村へ帰ろうかの。腹も減っておろう。戻って食事としよう。続く話は帰る道々でよい」
酋長とチェルは並んで歩いた。ふとチェルは、自分の身長が酋長とほぼ同じであることに気づいた。小さい頃から、偉大な酋長として見上げる尊敬の相手であった。それは今も変わっていないが、こうやって酋長と並んで歩くことはほとんどなく、酋長の背の高さなど、気づくこともなかった。酋長も同じ思いだったらしく、横にいるチェルを見て笑った。
「いつのまにやら大きくなったの。来年は成人の儀式か。そのころには儂の背は追い越しておろう。この先、どんな運命が待ち受けているかはわからぬが、その身に新しい運命を受け止め、儂らの知らないことを知り、儂らの部族により強い力を与えてくれるよう願っている」
それから酋長とチェルは、先代の酋長や今までの酋長、とりわけ三代前の予言の力を持つ酋長の話、外の村の白い人たちや白い人たちの戦争、現れた違う種族の白い人たちの話などをしながら村に戻った。
村に戻ると、村の入り口に幼馴染のリアが立っていた。
この部族には、言葉以外の通信手段があった。それを部族では「風の知らせ」と呼んでいた。風が自分のそばを横切っていくとき、親しい人やかつて親しかった懐かしい魂からの伝言や、あるいは親しい人の大きな喜びや悲しみなどの変化を知ることができる。リアも、風の知らせによりチェルの変化を感じ取ったのだ。
リアは、澄んだ瞳でじっとチェルを見ていた。目でチェルの変化を感じ取っていた。リアは、川の娘だった。川と一体になり、どんな急流であっても流れに身をまかせながら泳ぐことができた。そしてもちろん、魚捕りの達人であった。この部族では、十五歳の成人に達しない者は、部族の人々の食料を賄う義務はないが、実際にはチェルもリアも、多いに部族に貢献していた。
チェルとリアは、遊びの中であるときは森に出かけて鳥をつかまえ、あるときは川に出かけて魚を捕った。森ではチェルがリードし、川ではリアがリードした。ふたりは最高の遊び仲間で最高のパートナーだった。そしてもちろん、いつか二人は結婚するだろうと部族の皆が感じていた。ふたりもそう感じていたが、口には出したことはなかった。ふたりでいるとすべてのことがただ楽しかった。
部族の掟では成人は十五歳、十五歳から部族の大人としての衣食住すべてに義務が発生するが、結婚は十七歳からだった。三年先のことは、ふたりにはまだ遠かった。この部族は、いつでも今に焦点をあてて生きるよう意識付けられており、ふたりには未成年のいま、遊びたいことがたくさんあった。
リアはチェルに近づいて、ぽんぽんと腕をたたいた。腕をたたくのはこの部族の挨拶であり、おはよう、さようなら、おかえり、ありがとう、ごめんね、などあらゆる言葉の代わりになりうる。チェルは自分の変化がリアに受け入れてもらえたことを知ってほっとした。リアの目の高さが、いつのまにか自分が見下ろす位置になっていることにもはじめて気づいた。
「あとで川へ行こう、チェル」
リアはそう言って、チェルがうなづくのを見ると帰っていった。
「お前たちはいい組み合わせだな」
酋長はチェルにそう言った。チェルは少しだけ恥ずかしさを感じていた。だが、酋長の声も瞳もどこまでも優しかった。
「善き仲間は、大いなる聖霊からの贈り物だ。大切にするがいい」
酋長はそう言い、踵をかえして自分の家へ向かい、チェルも自分の家に戻った。家では食事の時間に遅れたチェルを母親が待っていて、なにも聞かずに食事の準備をしてくれた。
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