第2話 チェルの生い立ち

 インディアンの男の子であったチェルが生まれたとき、この地にはまだ平和があった。父も母も優しく、2つ違いの姉、3つ違いの弟とはケンカしながらも、仲良く一緒に成長していった。白人を見かけることはあったが、白人側も穏やかな性質の人が住んでおり、インディアンたちは狩りを、白人たちは農業を営んでおり、それほど多くの問題は起こらなった。


 なによりも、この部族には偉大なシャーマンである酋長がおり、なにか問題が起こると、この酋長が出かけていって、双方にもっともよい結末を提案する。卓越した頭脳を持ち、風土、気候、医学、農業、自然などあらゆる知識を持ち、「大いなるもの」に繋がり癒しの力があり、なおかつ白人の言葉も操ることができた酋長は、すでに白人側からも尊敬を得ていた。 

 白人の子供が病気になったとき、酋長は乞われてその子供を診にいった。酋長が子供を治すと、子供の母親はじめ、その親族たちすべてが酋長に尊敬を捧げた。同じ神を信じているわけではないが、お互いに目に見えないものに対する信仰と尊敬を持っていた。チェルが小さいころ、この均衡が破れるような兆しはなかった。


 だがそこに、インディアンたちの世界とは関係なく、白人同志の戦争がはじまった。最初は白人の男たちが農村から兵士として狩り出されていった。やがて白人たちは、インディアンの男たちも戦争に協力するよう、酋長のところに話をしにきた。酋長はもちろん断ったが、何度も何度も白人たちはやってきた。


 少年に成長していたチェルは、鳥を矢で射る名人になっていた。チェルは鳥を愛していたが、同時に鳥狩りの名人でもあった。そのことはチェルの中で違和感なく一体となっていた。生と死はこの部族ではわかつことなく隣り合わせであり、鳥の命をこよなく愛するチェルが、鳥捕りの名人でもあることは、同じ真理の裏表であった。そのことはチェルの誇りでもあった。

 

 チェルが十四歳になったある日、チェルは遠くから聞きなれない不思議な音がするのを聞いた。今まで聞いたどんな音とも違う種類の音。空気を切り裂き、空間が震えたあとの不思議な余韻。チェルは音の方向と距離をはかり、その場所へ向かった。

 静かに歩くチェルと違い、男たちが騒々しい音をたてながら近づいてきた。その白人たちは、チェルの知っている温和な白人たちと違っていた。言葉遣いも顔つきも荒々しく、野卑で、耳障りな大きな声でしゃべっていた。

 チェルはとっさに気づかれないように木の陰に身を隠した。狩りの達人であったチェルは、物音や気配を消し、動物や植物、自然と一体となることは容易だった。


 チェルは酋長から、白人の言葉を学んでいた。耳の鋭いチェルの能力を見込んで、酋長は白人の言葉を教える子供にチェルを選んでいたのだ。男たちの声が近づいて来た。


「なかなかいいぜ」

「ああ、・・・さえあれば怖いものなしだな」

「・・・で一発だな」

「やつめ、あっという間におさらばだ」

「すぐにカタがつく。・・・様だな」


 彼らはなにか、黒光りがする金属をはさんで、興奮して話していたが、その単語はチェルの知らない単語だった。しかしチェルには、その単語がその金属を表すであろうことは理解できた。気配や空気に敏感なチェルには、空気の乱れ、森の騒々しさ、漂ってくる血の匂いから、彼らが殺人をおかしたであろうことが読み取れた。


 チェルは男たちをやり過ごした。男たちがやってきたであろう道をたどると、森の中に多数の人々が踏み荒らした後があり、男が二人血を流して倒れていた。一人は頭から血を流していた。もうひとりは体の数か所に出血があり、致命傷になったのはどうやら首の血管の出血のようだった。


 ふたつの死体を抱えた森は、いつもの穏やかな森から、凶暴な魔を含む森へと変化しつつあった。空気がさわぎ、死体の血と肉を求めて、獣たちが目を覚ます気配がする。チェルは危険が迫ってくることを感じた。すぐに部族の村へと帰り道を急いだ。

 

 チェルの予想通り、酋長は、村からかなりはずれた場所までチェルを迎えに来ていた。それはいつものことだった。部族の誰かが酋長に相談事があるとき、酋長は前もってそのことを知り、あるときは家の外へ、あるときは村の入り口まで、その村人を出迎えにくる。


 酋長は、チェルの見たことのない険しい顔をしていた。


「チェル、そのまま村に入ってはいかん。まず、身を清めねばならぬ」

  

 チェルは黙って酋長に従った。酋長のあとに従い、村のはずれの水がわく泉までやってきた。

  

「チェル、服を脱いで泉で体を洗うのだ」

  

 チェルは言われた通り服を脱ぎ、泉で体を洗った。チェルが体を洗う間、酋長はチェルの服を持ってしばらく思案していたが、やがて大地の上に座りこみ、木の枝をこすりあわせ、火をおこした。そしてその火で、チェルの服を残らず焼いてしまうと、自分の上着を一枚とり、チェルに渡した。チェルは水をぬぐうと、酋長の上着をかりて、自分の身につけた。

  

 酋長には多くを語る必要はなかった。いつ、どんなときに起こった事件でも、酋長は起こった出来事をほとんど理解しており、必要な助言を与えてくれる。だがこのときは、いつもの何物にも動じない酋長ではなく、チェルが見たことのないためらいと迷いが感じられた。やがて酋長はぽつりと一言発した。

  

「儂は予言者ではない」

  

 酋長は語り始めた。

  

「三代前の酋長は予言の力を持っていたらしいが、儂は会うたことはない。

 儂には予言の力はない。儂は・・・たとえば風が、たとえば星が、かすかな予兆を告げることを感じるのみ。その予兆とて、確かなものではない。何かが起ころうとするとき、その前兆をほんの少し感じるのみだ。

  ここのところ、風や星が、儂には理解できないことを告げていた。理解できないゆえ、その予兆は不安を感じさせる。もっとも、予兆が危険を告げているからこその不安ともいえる」

  

 酋長はいったん言葉をきり、ゆっくりと深呼吸をした。

 チェルは黙って、酋長の言葉を待っていた。

 この部族では、誰かが語ろうとするとき、その語りが終わるまで口をはさまないという習慣があった。


「儂は、三代前の予言者であった酋長の予言を先代の酋長より聞いている。

 その予言が現実になるのが、儂の代だということも予言の中にある。儂はこの予言が起こるときのために酋長となった。そして、その予言の中に、今日の出来事が発端となることが告げられている。

  今まで儂らは、宇宙の均衡の中で調和して生きてきた。白い人々が表れても、調和が変わることはなかった。太陽や星が回るように、人々も流転する。

 儂らと、白い人々との間に違いがあるわけではない。

 同じようにこの宇宙の中にいて、宇宙の均衡の中にいる。

 そして、宇宙はこれからも宇宙であり続けるであろう。  

 だが、この母なる大地そのものが、宇宙の均衡の中で揺らぐときがやってきた。

 それは、子が親を忘れるとき。われら人という種族が、母なる大地を忘れるとき。

 子が親を忘れるとき、もはや子は子にあらず、親は親にあらず。親は子を守ることを忘れ、子は親から命を与えられたことを忘れる。  

 その最初の発端が表れた。母なる大地の揺らぎのはじまりだ。

 人という種族が母なる大地を忘れるとき、母なる大地はもはや人という種族を守らない。母なる大地から、人への憎悪が黒い煙となって立ち昇る。その黒い煙こそが「魔」となる。  

 チェル、お前は見たであろう。森が騒いでいたのを。黒い魔の気配があったのを」

  

 酋長は言葉を切ってチェルを見た。次はチェルが話す番だ。

  

「森が騒いでいるのはわかりましたが・・・」

  

 チェルは言葉を選びながら答えた。酋長の話すことが理解しがたいのは初めてだった。そして酋長の言葉に異をとなえるのも初めてのことだった。

  

「あれは人間です、酋長」

「人間ではない」

  

 酋長は即座に答えた。

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