五 悪意の対面②
第二皇子の顔色から弱々しさが消えて、眉根が寄る。糸のように細々と心を繋ぎ止めていた精神がはち切れて、怒りへと変わった瞬間だった。
憤怒のままに鳴らす喉は、地を這うように低く声を響かせる。
「たかが仙女と呼ばれて浮かれただけの女如きが……‼︎」
睡蓮の手を握ったままの力は更に強く肉へと食い込む。睡蓮は顔を歪ませるも、気丈に答えた。
「殿下の言う通り、私は只の一人の人間にすぎず、時に人を嫌悪し、悪意すら抱く。私を罵る方まで救おうとは思いません。私が慈悲を向けるのは本当に救いの必要な方々だけ」
睡蓮の瞳は強い眼差しを抱いたまま、第二皇子に最後の言葉を放った。
「私に殿下をお救いする心はありません」
気丈な声が終わると同時、青筋の浮き出た顔の形相が常軌を逸し、第二皇子は睡蓮の手首を握り締めて、そのまま長椅子の上へと押し倒した。
「私を愚弄するな‼︎」
組み敷かれ、しかし抵抗する様子もない。清廉と澄んだ瞳が真直に見据えて、それがまた第二皇子の精神を逆撫でた。悪意ある手が細い首を撫で、無垢な身体を穢そうと、留め具の一つへと指が掛かった。
その時だった。
ゴンッ――と、
「がっ――」
第二皇子の腹が蹴り上げられ、身体が背凭れを飛び越えて高々と吹き飛んだ。
睡蓮は軽くなった上体を起こそうにも、あまりも突然の出来事に、呆けて第二皇子を蹴り上げた人物を見上げる。
精悍で気さくな顔。だが、いつもはだらりと伸ばしたままにしてある髪が掻き上げられて、後ろで縛られている。
顔がはっきりと見えて、それが天擂と一眼でわかっても声の一つも出なかった。何せ格好もいつもの無頼漢なる姿が想像もつかない、黒で統一された衣は武官にも似た様相。軽装の武具を身につけ、腰に帯びた剣が様になり、顔が同じでも別人にも見えたのだ。
「悪い、
天擂は、ポカンと見上げる睡蓮に手を伸ばして起きあがらせると思いきや、そのまま抱き上げる。
「天擂さん……」
色々な事が重なり驚いて、今の今何をされていたかも吹き飛びそうな程だった。そんな睡蓮の心中など知る由も無い天擂は、「顔色は悪くないな」と呟くと、蹴飛ばした男へと目線を移した。
呻き声を上げながら
天擂は睡蓮を腕にしっかりと抱き留めたまま近づいて、傍で見下ろした。
視線は殺気が篭り、冷酷。それでも第二皇子は動かない身体で必死に天擂を睨み返していた。
それが気に食わなかったのか、それとも別の理由か。天擂は起きあがろうとする第二皇子を踏み躙るようにして……文字通り背を足で踏みつけて、床へと這いつくばらせた。
「天擂!」
相手は曲がりなりにも皇族である。天擂が罰せられる事を恐れて止めようとするが、天擂は聞く耳を持たなかった。
「こいつは自分の事しか考えてない糞野郎だ。当然の報いだ」
「だからって」
睡蓮がもう一度天擂を宥めようとしたが、天擂の足下から響いた声で遮られた。
「私は何一つとして悪くない! 仙女を妻に迎えろと言ったのも母だ! お前だってそうだ、私の気も知らないで治療院の為に金を出せと脅してきたではないか! 兄上も……仙女の力がなければ皇帝になれないなどと言って、私を馬鹿にして……‼︎ そうだ……私は悪く無い……私は……」
恨み節を続ける第二皇子に対して、天擂が背に乗せたままの足にさらに体重をかける。
「この屑、潰すか」
「
耳慣れない、渋みのある声がして睡蓮は視線を向けようとした。だが、それよりも早く天擂が第二皇子から足を退かして一歩下がると睡蓮が落ちない程度に頭を下げた。
「
あっさりと気を沈めた天擂の声よりも、その言葉自体に睡蓮は肩が跳ねる。
五十に差し掛かった、風格ある髭を生やした中年の男。問題はその装束だ。龍の紋様が入った
皇帝陛下の御前。身動きできない睡蓮は天擂の腕から抜けだそうと「天擂、下ろして」と小声で訴たが、天擂は聞こえないふりを決め込んで離さない。
「仙女睡蓮、此度はこちらの不祥事につき合わせてしまったな。話は
早急に此処から去れ。皇帝の瞳が言葉を終えると同時にそう告げて、天擂は再び頭を下げる。睡蓮を抱えたまま皇帝の横を通り過ぎて外へと出ていった。
◇
息子と二人になり、皇帝は今も床に這ったままの姿へと近寄った。
足取りは重く、
「
独り言のように、後悔を口にする皇帝は息子の顔の前で止まる。そのまま、惨めに床を這うばかりの姿に
「お前は私に似て流され易い。その上、矜持は高いが心は
第二皇子は父の言葉を受け止めきれず愕然とした。当然だろう。自身が行ってきた全てが無意味だと言われたのだから。
「私は……!」
「お前は
皇帝は息子への慈悲をかけることは一切なく、そのまま背を向けた。
「陛下……父上!……父上‼︎」
鉄扉の前まで戻り、皇帝は最後にもう一度振り返る。
「お前が皇后に流されず、幽閉されている身として大人しくしていればまだ、生き残る術もあっただろう」
最後通告を父と呼んだ人から聞かされて、第二皇子の口からは最後の恨み節が漏れ出た。
「何故、たかが女一人……」
しかし皇帝は冷静に、それでいてあっさりと言葉を返す。
「異能を持つ、な。その価値を理解せぬとは」
「もう失ったではありませんか‼︎」
「それは、誰が言った?」
「え?」
皇帝は再び踵を返して出口へと向かう。暗闇へと消えていく父の背を目で追うが、間も無くして別の影が暗闇の向こうから現れる。
武官のいで立ちで、その手には既に血に塗れた剣を握る。外で何が起こったか。これから何が起こるかを示唆していた。
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