第五章 枯木竜吟
一 悪
今から、九年前――
豪奢な部屋だった。
下級貴族ではお目にかかれないような光沢を放つ卓の上には、湯気に立つ茶杯のみ。
長居をしないただの客であれば、それでも問題無かっただろう。だがしかし、
『
しかし睡蓮もそれを承知の上か、まだ年若い十四歳と言う歳の頃。肝が据わって泰然とした眼差しは、すでに覚悟を決めた冷静な声音で言葉を返した。
『ええ。ですが折言って、
妙に落ち着いた態度が気に食わないのか、第二皇子は苛立ちを隠しながらも言葉に棘を含ませる。
『そなたは何か進言できる立場か? もう
仙女と呼ばれた女――睡蓮は、第二皇子の言葉に眉一つとして動かさなかった。通常であれば卑下されたと知っても皇族相手とあらば、
しかし、睡蓮の眼差しは依然据えたまま。
『仙女としての立場が必要なのは、殿下も同じで御座いましょう。だからこそ、
睡蓮が言い換えした事で、大人しく従順だと思い込んで油断していた顔が張り詰める。
『ほう、それで』
『私が婚約をお受けしたのは霍家程度の家では断れないからで御座います。ですから、殿下には私からの条件を飲んで頂こうと思いまして』
そちらも望んでいないだろうが、こちらもだ。そんな可愛げもないどころではない返しに、第二皇子の顔には今すぐに青筋が立ってもおかしくはなかった。が、鉄仮面の如く表情を隠しているのか、それとも何も感じてはいないのか。
『条件と言うが、そなたが
『そればかりは天の采配を待つよりありません。ですが、私が仙女の仮面を被り続ける事は可能で御座います。異能が存在したと同様に今も人々が求める姿であり続ける。しかし、それだけでは金銭的に困窮してしまいます。治療院は救いの手を差し伸べる場ですから』
『そなたが仙女であるのに、金を寄越せと? とんだ悪徳ではないか』
睡蓮は
『ですが、婚姻するその時まで私が仙女であって欲しいのは殿下御自身で御座いましょう?』
第二皇子の鉄仮面はピクリとも動かない。それは睡蓮も同じだった。互いに、牽制のような無言。往年の宿敵同士が向かい合ってでもいるような張り詰めた空気が続いたが、先に声を上げたのは第二皇子だった。
『良いだろう。そなたが
『いえ、
鉄仮面が歪んだ――ようにも見えた。第二皇子の目が鋭くなり、睡蓮を睨めるようで。しかし、そこから睡蓮はさらに続ける。
『婚姻早々に見捨てたとあれば、政略の為と言ってるより他なりません。私も皇族に取り入る為に仙女としての立場を利用した
全てにおいて、損をするのはお前だ。そう言って、睡蓮は
◇
『何だあの女はっ‼︎』
地に落ちた仙女。そう揶揄されても直微笑みを絶やさぬ、慈悲と慈愛に溢れた――そんな噂が今も続いている。
仙女として評判を落とさぬように必死に足掻いている女――そんなか弱く大人しい女だと耳にしていた。
しかし、今日と言う日に見せた姿は、そんな噂など当てはならないと思い知らされる。
――扱い易い女では無かったのか‼︎
鉄仮面が崩れ、熱り立たつ。皇族の尊厳すら踏み躙られた感覚に仮面など保ってはいられなかったのだ。
『あの女……』
今にも、目の前にある椅子にでも当たり散らそう手をかけようとした時だった。部屋の入り口から、『
『君か、すまない。こんな姿は見せたくなかったのだが』
『いえ、殿下がお怒りになるなど……何かありましたか?』
黒真珠を思わせる髪の光沢と、瞳の輝き。整った顔立ちと切れ長の目。薄い唇を色付かせるように塗られた紅は、女の魅力を引き出しているようでもあった。
第二皇子は今にも破壊しそうだった椅子に腰掛けると、女を手元へと呼び寄せる。
女は言われるがままだった。足元に膝を突き、第二皇子の手を慰めるように包み込むと、愛おしげ頬を寄せる。
第二皇子の眼差しに熱が籠る。しかし反対に、声色は欲しいものが手から滑り落ちた時のように沈んでいた。
『……そなただけを妻にできたなら良かったのだが』
『私は
第二皇子は空いたもう一方の手で、女の頬を撫でる。
心の拠り所を求めるように、指の背でゆっくりと情愛を込める。しかしそれとは裏腹に、溜まりに溜まった腹の内を曝け出すように第二皇子の口からは疲れた声音が絞り出されていた。
『私が生き残るには、皇帝になるしかない。
女は第二皇子に寄り添ったまま、同情を込めた眼差しを向ける。
『母の言葉通り、仙女が力を失ったとしても彼女の威光は私にとって有益だ。……なのに、あの女』
一度は治りかけた怒りが、沸々と湧き上がる。まるで、此方を下に見ているような眼差しが忘れられない。腹の内でぞわぞわと何かが広がり行くように、第二皇子の腹の内でどす黒い感情が育ち始めていた。
『殿下、仙女など好きにさせておけば良いのです。どうせ力も無い。殿下に金の無心をせねば仙女の名すら語れない女。利用したその後ならば、いくらでも……』
第二皇子の眼差しが、僅かに悪意で染まる。
『ああ、そうだな。いくらでもやり用はあるな』
女の手を引いて膝の上に乗せると、第二皇子はこれ以上ないくらいに女を優しく抱きしめた。
女の目に宿る悪意に気づく事もなく。
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